平成30年度夏季大会 発表要旨

上智大学国文学会 平成30年度夏季大会要旨

標記は、次の通りです。

大会プログラムこちらです。

梁川紅蘭と『三体詩』―近世後期における中晩唐詩受容―              中野 未緒

梁川紅蘭は近世後期の漢詩人である。夫の梁川星巌が紅蘭に『三体詩』を暗誦するように言った逸話や星巌の交友関係より、紅蘭は『三体詩』をはじめとする中晩唐詩の影響を受けていたと考えられるものの、そのことに言及している先行研究は特に見当たらない。そのため本発表では『三体詩』を中心とした中晩唐詩受容について考えていきたい。紅蘭の『三体詩』受容は、『三体詩』の句の意味をそのままに借用しているものと、『三体詩』の自身の不遇や世の中の乱れを嘆いている句を、意味を逆転させて用いているものに分けられる。また紅蘭の『三体詩』以外の中晩唐詩の受容について、館柳湾が刊行した中晩唐詩の詩集に載っている詩が典拠として用いられているものがいくつかある。紅蘭が館柳湾の刊行した詩集に影響を受けていたという可能性を示していきたい。

 

マニラ版『ロザリオの経』の典拠について                     岩澤 克

マニラ版『ロザリオの経』はドミニコ会士Juan de los Angelesによって編纂され、1623年にマニラで刊行された修徳書であり、種々の奇跡譚を収録する。これは当時の欧州に広く流布する奇跡譚を編纂・翻訳したものと考えられ、各章段末尾に付される注記から、その著者名が窺える。その注記に挙げられる各著者の文献と内容や形式が一致しており、それらを典拠とする可能性が想定される。

最も多く名が挙げられるIoan Sagastizabalの著作『Exortacion a la santa devocion del Rosario de la Madre de Dios』は特に重要と考えられる。最も注目すべきは、『ロザリオの経』注記において、Sagastizabalの名が見えない章段においても一致が確認されることであり、その一致は巻4のほぼ全ての章段に渡る。このことから、『ロザリオの経』巻4の典拠は Sagastizabalの著作か、それを継承した文献であり、『ロザリオの経』は多様な著者名を挙げながらも、既に欧州において編纂されていた文献を孫引きする形で成立したものである可能性を指摘する。

 

風景論の移譲 ― 志賀重昂以後                          木村 洋

一八八〇年代後半から一八九〇年代の文学史は、経世家の顔と文学者の顔を併せ持つ、硬軟混在型の言論人の活躍によって特徴づけられる。その代表が志賀重昂だった。特に志賀の『日本風景論』(一八九四年)は硬派知識人の手になる新たな文学的成果として注目を集める。その革新性は、風景観(美意識)の複数性を考慮しつつ、操作的に既知の風景観の解体と再構築を推し進めねばならないという自覚の鮮明さにあった。そして後続の国木田独歩をはじめとする文学者たちは、濃厚な政治意識に染まっていたこの「風景論」という営みを、いっそう非政治的な自分たちの世代の気分にとって都合がよいように再加工し、所有し直した。ここに志賀の世代から非政治的な後続世代への新知見の移譲の儀式を確認できる。一連の経緯は、明治中期の表現と思想の歴史の発展形態を典型的に示す一例として注目に値する。

 

藤原宇合の風土記関与                              瀬間 正之

藤原宇合が『常陸国風土記』と『西海道風土記』に関与した可能性について、宇合の年譜を押さえながら、次の三点からさらに進めて追究していきたい。第一に『常陸国風土記』の「郷」字の出現箇所の検討である。『常陸国風土記』は多く「里」字を用いる中で数例「郷」字が使用されている。その理由を明らかにするところから宇合の関与を確認したい。第二に『西海道風土記』における平仄の問題である。『懐風藻』所載の宇合の詩序が平仄を整えているのに対して、『常陸国風土記』は、平仄に関して配慮されていない。それに対して『西海道風土記』では、平仄を配慮して書かれた箇所が認められる。この意味を問い正したい。第三に、改めて『西海道風土記』『常陸国風土記』『懐風藻』所載宇合作品に共通に用いられる語の検討を通して、宇合が風土記に関与した蓋然性をさらに高められれば幸いである。

平成30年度夏季大会 大会案内

上智大学国文学会 平成30年度夏季大会

標記は、次を予定しています。

発表要旨こちらです。

日時
2018年7月7日(土)13:30〜
会場
上智大学 7号館14階特別会議室
研究発表(13:40〜)
「梁川紅蘭と『三体詩』―近世後期における中晩唐詩受容―」
2018年上智大学国文学科卒業  中野 未緒
「マニラ版『ロザリオの経』の典拠について」
国立国語研究所プロジェクト非常勤研究員・上智大学非常勤講師  岩澤 克
「風景論の移譲 ― 志賀重昂以後」
上智大学文学部准教授  木村 洋
「藤原宇合の風土記関与」
上智大学文学部教授  瀬間 正之
総会(17:00〜)
土田賞表彰式
上智大学国文奨学金授与式
懇親会(18:00〜)
上智大学 2号館5階教職員食堂
会費 4000円
卒業生の方の御参加を歓迎します。

図書館6階国文学研究室について

上智大学(四ツ谷キャンパス)中央図書館の6階に、国文学研究室があり、1万2千冊の専門書が、上智大学文学部国文学科・大学院国文学専攻の学生・院生の利用に供されています。

  1. この国文学研究室の利用については、利用規程を参照して下さい。
  2. 国文学科・国文学専攻の学生・院生以外の方の研究室の利用には、制限があります。又、研究室は、図書館の6階にありますが、開室日・開室時間は限られており、図書館開館日であっても閉室していることもあるので、御注意下さい。
  3. 国文学研究室、及び国文学科所蔵の図書の目録は、次からオンラインで検索できます。https://www.sophia-kokubun.jp/KOKOPAC/

秋学期開室時間

月~木 12:40-17:30

金   15:10-17:30

図書館6階国文学研究室利用規程

 

L号館(図書館6階)国文学研究室利用規程 (平成30年度)

  1. 開室時間:月曜 ~ 金曜 原則として 12時30分 ~ 17時30分
  2. 休室日:土曜日、日曜日、国民の祝日(授業実施日を除く)、図書館の休館日、学則に定められた休日、および、その他特別の事情がある場合。ただし、春期・夏期・冬期休暇中の開室については別途に定める。
  3. 登録研究室の利用にあたっては、必ず受付で所定の登録手続きを行うこと。
  4. 図書の閲覧・帯出
    1. 室内閲覧:特別な手続きは必要としない。閲覧後、必ず元の場所へ戻すこと
    2. 館外帯出:館外帯出用紙に必要事項を記入の上、図書館一階の貸出カウンターで磁気処理の手続きを行い、帯出する。
      返却の際には、帯出時と同様に図書館一階の貸出カウンターで磁気処理の手続きを行い(注1)、研究室の受付に返却する。帯出期間は1週間。冊数は大学院生5冊、学部生が2冊までとする。
    3. 国文学科専任教員・国文学科学生・大学院国文学専攻院生(研究生を含む)以外の利用については別途に定める。(注2)
  5. 複写複写の際は、複写帯出の手続きをとり、館内の複写サービスを利用する。複写後、必ず開室時間内に返却すること。* なお、受付業務は国文学専攻大学院生が交替であたる。

    (注1) 館外帯出する際は、研究室受付にて受付担当者が図書に黄色のスリップをはさむ。
    これは、図書館一階の貸出カウンターで磁気消去の手続きを行う時、また、返却の際に磁気再生の手続きを行う時に重要なものであるから紛失しないように注意すること。
    (注2) 国文学科専任教員・国文学科学生・大学院国文学専攻院生(研究生を含む)以外の利用について次の通りとする。

    所属・資格 手続 図書の利用
    他学科・他専攻の学生及び教職員 「国文学研究室利用願」を提出し学生証・身分証明書を提示する 室内閲覧のみ、複写可
    本学卒業生、院修了者で館友会員の者 国文学科専任教員の紹介を得て、「国文学研究室図書閲覧願」(様式A)を提出し、国文学専攻主任の許可を得ること。(所属教育機関の紹介状を求めることもある) 室内閲覧のみ、複写可(許可された期間内)
    本学卒業生・院修了者で館友会員ではない者、学外者 あらかじめ、国文学専攻主任あて「国文学研究室特別閲覧許可願」(様式B)を提出し、必ずその許可を得ること。(所属教育機関の紹介状を求めることもある) 同上(原則として利用は一日)

     

木越治先生葬儀之記

木越治先生葬儀之記

国文学科教授 長尾直茂

平成三〇年三月三日午後六時より桐ヶ谷にて木越先生の逮夜が執り行われた。先生らしい無宗教の音楽葬というスタイルであった。〝先生らしい〟とは、あれほどまでに怪異の世界にこだわり、そして生涯にわたって科学的に研究された先生が、自らの最期までを客観視されようとするかのような潔さを無宗教というスタンスに感じたからにほかならない。そして、斎場に流れるジャズやクラッシック、流行歌などの様々な楽曲を聴きながら、(先生はいつも研究室で音楽を聴いておられたなあ)と懐かしく想い返したからでもあった。時にはお気に入りの志ん朝の人情噺をしんみりと聞き入っておられることもあり、かと思えばウェザー・リポートのファンクなグルーブ感いっぱいの音楽を大音量で聴いておられることもあり、いずれも好みにかなって、私も洩れ来る音源をこっそりと御相伴したことであった。

逮夜では奥様が挨拶に立たれ、病気の経過等を説明された。抗癌治療が功を奏し始めた矢先の逝去であった事、そして「リハビリがしたい」と最期におっしゃって先生は他界された事等のお話をうかがい、何とも遣り切れない気持ちで胸が一杯になった。記憶が朧気ではあるが、斎場にはクリフォード・ブラウンの名盤「ウイズ・ストリングス」からの曲が流れていたような気がする。ブラウニーの奏でるトランペットがこんなにも哀しい音色であることを、これまで知らなかった。

献花の後、別室で酒食のご接待に与った。見知った顔の方がたくさんおられたが、酒を飲む気にならず、早々と席を抜け出した。人気のない斎場の柩の中に、先生はこれまで拝見したこともない表情で静かに静かに眠っておられた。

明日四日の午前一一時より葬儀が行われた。昨日同様に無宗教の音楽葬というスタイルであった。友人を代表して渡辺憲司先生が弔辞を述べられた。若い頃からの木越先生との交遊をしゃべられた後、最後になって柩に向かって〝木越〟と呼びかけ、「おまえのいない学会なんて面白くないから、もう行きたくない」と言われた。思わず目頭が熱くなった。

音楽葬の掉尾を飾ったのは、ジュリー・アンドリュースの唄う「サウンド・オブ・ミュージック」であった。この曲が先生に捧げられ、皆は静かに聴き入った。あのジュリー・アンドリュースの澄み切った美しい歌声は、まるで聖歌のように斎場に響いた。正しく音楽の調べThe sound of musicとともに先生の御魂は天に昇ってゆかれたのではないかと思う。この後先生は荼毘に付されて、私どもの知る先生はこの世からおられなくなった。皆と別れて独り横須賀線に乗って帰る途中、電車は大きな音をたてて鉄橋に入り多摩川を渡った。ふと向こうに丸子橋が見えた。(木越先生はあの辺りに住んでおられたのだった)と思い、いっそう切なくなった。

木越さんとの旅

木越さんとの旅

国文学科教授 豊島正之

上智大学に移って2年目の2014年度の冬、運良く重点研究予算を頂いた私は、木越さんと大学院生二人と共に欧州を旅した。版本キリシタン版・キリシタン写本の紙、本の重み、インキの載りなど、書物としてのキリシタン文献の姿を木越さんに見て・触れて貰い、その生産現場へ思いを馳せる木越さんの姿が見たかった。このため、手動プレス印刷時代の印刷所の姿をそのままに残すプランタン・モレトゥス印刷博物館(アントワープ)も旅程に組入れ、リスボン・エボラ・ブリュッセル・アントワープ・パリの五都市を訪問する忙しい旅となった。

木越さんは、建前がお嫌いである。怪しいロジックで武装しても、本音を言って見ろと急所を突いて来る。旅の途中に、キリシタン版の技術に就て色々と御下問があった。論文に書き、書物にもし、講義でも繰り返した説明を並べ立てていると、「で、それは何故なの?」と来る。容赦無く掘り下げ続ける御下問に、手の内の材料を使い尽して応戦これ努めるうち、どうしても説明出来ない、もはや命題というに値しない、単なる思い込みの様なものに到達する。「で、それは何故なの?」「論証出来ないけど、これ以外には思いつかない」と白状すると、ようやく御満悦である。専門分野でもこの手で丸裸にしてるのなら、近世文学を専門にしなくて本当によかった、とつくづく思った事だった。

プランタン・モレトゥス印刷博物館では、当時のプレス印刷機に吸い寄せられる様に近付いて詳しく観察され、夥しく並んだ活字箱を見ながら、「たったの50文字(大小アルファベット)でこれ(この規模)なら、仮名・漢字はどうしたんだ」という、これまた本質を突く疑問を呈され、やむなく「イエズス会の漢字字書(「落葉集」)は、実は活字索引だった」という(根拠も何も無い)思い込みを披露するに及んで、ようやく満足された。

夜行便で到着した初日のリスボンの昼、ポルトガルらしい素朴な野菜のポタージュを評価されたのは意外だったが、ブリュッセルはやはり別格だった様で、夜のグラン・プラスの絶景に接しての「これがヨーロッパですか!」の一言は忘れられない。そのグラン・プラスの地元料理屋に、ベルギービールの長いリストがある。木越さんは、一日目の晩に、そのほぼ半分を試された。翌晩もその店で残りの半分を飲みたいというから閉口した。その店の料理は、豚肉をリンゴとじゃがいもと一緒にココットに放り込んで蒸し焼きにした様な素朴極まるもので、ビールリストのためだけに何も裏を返さなくてもと思うのだが、目録にある限りはコンプリートせずには置かないという気質を、ここにも発揮された様だった。

これに懲りて、パリの店は全て勝手に決めた。中でも、季節のBelon(ブロン)の牡蠣を召し上がって頂けたのは幸運だった。Belonは、普通の牡蠣の数倍の値が付く。その店の最後のBelon 6個を注文し、全て木越さんに食べて頂いた。「四つめを飲み込んだあたりから、ようやく味が分かって来た」との御感想だったが、正にBelonの精髄を味わって頂けた事になる。

木越さんとは、拙作のパソコン用ソフトウェアを愛用して頂いたりで、30年以上のお付き合いになる。秋成を題材にした「国文学のためのPython入門」の共著の計画もあったが、私の怠惰のために機を逸したのが心残りである。

追憶の断章

追憶の断章

就実大学表現文化学科講師 丸井 貴史

向田邦子の『霊長類ヒト科動物図鑑』(文春文庫)に、「泣き虫」というエッセイが収められている。父が急死したあと一度も泣くことがなかった向田は、四十九日が過ぎたころ、友人たちと京都に出かけた。そこでいつものように珍味屋に立ち寄って土産を買い、「このわたも入れてくださいね」と店員に頼んだ直後、このわたが好きな父はもういないのだということに思い至り、気づいたときには涙が止まらなかった、という内容である。

私はこのエッセイのことを木越先生から聞いた。授業中だったか何かの雑談の折だったかは定かでないが、先生は向田のこの経験を、「浅茅が宿」(『雨月物語』)の勝四郎が妻宮木の死に気づく場面に引きつけてお話しになった。「宮木はすでに死んでいるのではないかと疑っていたはずの勝四郎が、彼女の死を「はじめて」確信したのが辞世の歌を目にしたときというのはあまりに鈍すぎるのではないかと思っていた。しかし、向田のエッセイを読み、自分もそれに近い経験をしたときに、この描写が人間の本質を的確に捉えた描写であることに気がついた」と。

 

先生が亡くなったことを奥様からの電話で知らされたのは、2月24日のことだった。現実に起こった出来事を、あれほど現実として捉えられなかったことは過去にない。関係各所に連絡を回しながら、私は実に淡々としていた。お通夜と告別式に参列したときも、ご遺族の涙に胸の塞がる思いがしたのは確かだが、先生の死はまったく実感を伴わなかった。穏やかに目を閉じておられる先生の姿を前にしてもなお私は泣けず、自分はこれほどまでに薄情で恩知らずだったのかと自己嫌悪にも陥った。

ところがその数週間後、岡山への転居が無事に済み、ようやく仕事ができるようになった日の夜、私は向田や勝四郎と同じ経験をすることになる。パソコンを立ち上げ、しばらく放置していた論文のファイルを開き、原稿を書き始めようとしたまさにそのとき、不意に涙が出てきたのである。

胸を躍らせながら先生の授業に出て、憧れを抱きながら先生の論文を読み続けてきた私にとって、先生を唸らせるような論文を書くことは、夢そのものに他ならなかった。しかし、その夢はもう叶わない。書きかけの論文を前にして、私は「はじめて」そのことを覚ったのだった。

 

気づいたら、木越先生と出会ってから13年が経っていた。

金沢大学文学部1年生のとき、必修科目のオムニバス講義「文学研究入門」で、私はたまたま木越先生ご担当の回に発表をすることになった。確かそのときも「浅茅が宿」が題材だったはずである。後期の教養科目「日本文学入門」では、膨大な量の本を読むことが課題として与えられた。本をまったく読まない高校生だった私は、ここで文学を学ぶための基礎体力を身につけた。2年生で日本語学日本文学コースに進み、初めて受講した木越先生の授業は、『業平集(在中将集)』についての講義だった。その講義の虜になった有志数人で「業平集研究会」を立ち上げたところ、先生は顧問になってくださり、東京へ訪書旅行に連れていってくださった。東京大学の国文学研究室や国立国会図書館の古典籍閲覧室には、そのとき初めて入った。暴風のため金沢に帰れなくなり、先生のご長男である祐介さんの家に泊めていただいたことも懐かしい。3年生のときには大学院の演習に参加させていただき、『英草紙』について発表した。その拙い発表は先生のご助言を受け、7年後に「方法としての二人称―読本における「你」の用法をめぐって―」(『読本研究新集』第7集)という論文に結実した。4年生になったときには「卒論のことばかりやっていたら、卒論は小さなものになってしまう」と、勉強会を開いてくださった。大塚英志や大澤真幸の評論を読んだ記憶がある。そして大学院に入る一月ほど前、突然電話がかかってきて、「来年から1年中国に行ってこい」と言われた。「これからは白話小説をやらなきゃだめだ」という言葉の意味がわからないまま中国に行き、結局ずっと白話小説と関わりながら、私は研究を続けている。

 

留学することが決まったとき、先生は「修論はちゃんと面倒みてやるから心配せずに行ってこい」と送り出してくださった。そして私が中国に行った直後、上智大学へ移られた。日本に戻ってきたとき、先生は「上智で学位を目指してみないか」と声をかけてくださった。そして私が学位論文を出す前に退官された。学位を取得したとき、先生は「あとは就職だな」と励ましてくださった。そして私が専任講師として就実大学へ赴任する直前、鬼籍に入ってしまわれた。

何をするにも、いつも私は一歩遅い。だから最後のお礼も言えなかった。

 

先生から学んだことはたくさんある。それは疑いないことだ。しかし私は、いったい何を先生から学んだのだろう? 次にお会いするときまでに、それを言葉にできるだろうか……。

 

そんなことを考えていたら、「くだらないこと考えてないで、さっさといい論文書けよ」と声が聞こえた。

そうします。

最後まで不肖の弟子ですみません。

 

平成30年4月24日

丸井 貴史

ご一緒した釜山と台南

ご一緒した釜山と台南

国文学科教授 瀬間正之

木越さんと言えば、忘れられないのは、二〇一四年夏、院生・教員二〇名で参加した釜山大とのシンポジウムの際、三晩続けてナクチ(手長蛸)の活き作りをご満悦そうに頬張る姿である。生きたままのナクチを刻み、ごま油と塩をかけただけのお手軽料理であるが、韓国人でも蠢くその光景に敬遠する者もいる。シンポ前日のチャガルチ市場で味をしめられたのか、翌日、翌々日と連続して立ち寄った西面の屋台でもナクチを所望され、取り憑かれたように食されていた。屋台では、飲んだ焼酎の空き瓶を一列に並べる提案を出され、隣の店から借りてくるほど大量に消費した空き瓶が一列に並ぶ光景は胸が空く思いであった。

二〇一七年新春には、院生と小林さんを混じえた数人で台湾旅行にご一緒した。木越さんの故郷金沢の偉人八田與一技師が稲作灌漑用に造った台南の烏山頭ダム見学では、八田與一像と2ショット。これまたご満悦であった。夜は小林さんの部屋で毎晩シーバスリーガルを飲んだ。このシーバスもすっかり気に入られたようであった。飲みながら当時の韓国映画についてご紹介したところ、帰国後早速その「国際市場で会いましょう」を御覧になったとのメールがあった。感涙なしに観られなかったということで、その後韓国映画を見歩く趣味を持たれたようである。

よもや、台湾旅行から一年余りで急逝されるとは思いも寄らなかった。おいしそうに飲む姿と幸せそうに食べる姿ばかりが焼き付いている。その姿を思い起こす度にこちらも幸せな気分になる。