2021年度夏季大会発表者募集

今年度の夏季大会は、2021年7月10日(土)午後zoomにて開催予定です。

発表者募集は、締め切りました。(2021年5月19日)

発表をご希望の方は、

1.氏名

2.メールアドレス

3.所属

4.発表題目(仮題でも可)

5.発表要旨(200~400字)

をご記入の上、2021年5月18日23時59分までに、申し込みサイトにてご送信ください。

会員新著紹介:原貴子『森鷗外の現代小説 不平等のなかの対等』

上智大学大学院文学研究科国文学専攻博士後期課程 木村素子

 森鷗外の現代小説は主に明治40年代に発表され、小説内時間を発表された同時代に設定していることから、作家・森鷗外像を考察するための作家論の立場から論じられる傾向があった。本書においては、各論文毎に示される「問題のありか」において、先行研究が整理されており、そこには作品と真っ正面から向き合う論がこれまで少なかったことが暗に提示されている。

 本書は鷗外の現代小説から8作品を対象として、大きく6章で構成されている。それを作家論的ではなくテクストとして捉え、これらのテクストに「対等」の意識が通底していることを、全体を通して詳らかにしている。

 「Ⅰ 対等への志向」は、論者が本書全体の「見取り図」と位置づけたように、本書の総論であり結論とも言える章段である。この章では鷗外の現代小説の特質として、「不平等のなかにおいて平等に価値を見出し、対等な関係性を希求し探求する姿勢」を指摘する。この「対等」とは、「自己と他者との間に、さまざまな点で優劣・上下が生じていながら、主に他者に対する敬意に由来して包括的には他者と自己を横並びの存在として認識し、定位しようとする精神性」と定義している。この「対等」意識が現代小説においてどのように描出されているのか、各論としては取り上げていないテクストをも視野に入れながらまとめている。「Ⅱ 人種」では、「大発見」・「花子」に見られる、人種間における不平等のなかの「対等」を考察する。特に「花子」では、ロダンと花子の間には人種的序列などの不平等が存在するが、一個人として向き合う際には不平等のない人間同士のやり取りが行われているとして、この関係性に不平等のなかの「対等」を見出している。「Ⅲ 職業」では、職業上の不平等について「吃逆」・「里芋の芽と不動の目」を題材として考察している。「吃逆」で描かれるのは、待合における芸者と知識人の客とのやり取りである。芸者を下位に、客を上位に置くことが制度として定まっている場において、芸者の問いかけに真摯に対応する客は、制度を越えた一対一の関係性を築いたのであり、芸者を一人の人間として扱っている。ここに行為としての「対等」が成立していると論じる。「Ⅳ 下層社会」においては、異なる社会的階層を生きる人々や、下層社会に生きる人間の姿を描く「仮面」・「牛鍋」を考察の対象としている。特に「牛鍋」において描出される、下層社会における「本能」の争いと助け合いという問題において、クロポトキンの『相互扶助論』の内容に通じる点があることを指摘した上で、論理と実践の間には大きな障壁があり実践に移すことの困難さを示したテクストであると論じる。「Ⅴ 欲望」の章では、「鶏」の登場人物「石田小介」とは如何なる人間か、という問題点と、乃木希典表象との関連性という問題点の二つを大きな問題意識として取り上げ、精緻な論を展開している。「石田」の他者に対する言動を基にその認識を考察すると、特有の倫理観や価値観を有しているものの、相手に歩み寄る柔軟性や寛容さを持った人物であるということができる。そしてこの精神的な柔らかさは、社会的な立場の違いなどに左右されることがない。また、作中で「石田」が生活態度の基準としているように見える「野木」は、乃木希典をモデルとしている。このことから当時の乃木表象を、新聞や乃木に関する書籍、職場を共にした人物の手記などから多角的に追究している。類似点もあるものの、生きる認識においては、大きな違いがあることを指摘し、性格の捉え難さ故に乃木の直接の影響を「石田」に見出そうとする先行論とは一線を画している。「Ⅵ 制度」では、「蛇」に登場する理学博士「己」の言動が小説の中核を成しているとして、他者と直接話法で会話をする場面に、「己」の明確な認識を見出すことを第一の問題提起としている。第二の問題は「蛇」という作品に対してこれまで言及されることのなかった、明治44年前後の普通選挙運動と、「己」の発言が関連性を持っていることに焦点を当てている。教育歴や経済力といった外的条件によって人間の上下を判断するといった考え方が社会で共有されていたという問題を、普通選挙運動を巡る言説の中に見出し、この考え方と対極にある考えを持つのが「己」であると位置づける。「己」は外的条件ではなく、「理性」の有無、つまり自らの観念を現実に合わせて再編成していくことで、自己を新たに生成することができるか否かという基準で人間を識別する考えを持つ。この「己」の考え方は、普通選挙運動が内包する観念への批判となっていると論じ、強い関連性を指摘した。

 本書の特徴は、テクストの〈読み〉と文化的コンテクストに対する精緻な〈調べ〉が確かに手を取り合っていることであろう。それ故に考察は重厚、抜かりのない調査は同時代の空気を私たちの眼前に再現してくれる。そして、この特徴が最もよく表れているのを私は、「Ⅴ 欲望」及び「Ⅵ 制度」の章に見る。この、〈読み〉と〈調べ〉の強い結びつきという手法は、森鷗外研究のみならず、近代文学研究に刺激を与えるものと思われる。

花鳥社

A5判・270頁

2021年3月30日(初版)

定価4,200円+税

会員新著紹介:中野遙『キリシタン版 日葡辞書の解明』

大妻中学高等学校教諭 小島 和

 「キリシタン版」とは、16世紀末から17世紀初めに、イエズス会をはじめとした、その他のキリスト教団体の宣教師らが、布教を目的として編纂・出版した資料群のことを指す。「キリシタン版」として刊行された語学辞書は、『羅葡日対訳辞書』、『落葉集』とあるが、本書が扱う『日葡辞書』は、そういった辞書類の中でも最後に刊行されたものであり、最も大部の辞書となる。当時の日本語にポルトガル語語釈が付される形で編纂されたこの辞書は、言語資料としての価値も高く、広く研究に使用されてきた。しかし一方で、本書でも指摘している通り、「日葡辞書とはどういう辞書か」という問題に、真正面から向き合ってなされた研究は、さほど多くはなかったように感じる。また、『日葡辞書』に触れたことのある読者は少なくないであろうが、その読者の多くのいう『日葡辞書』とは、1980年に刊行された『邦訳 日葡辞書』のことであり、その原文にまで目を向けたことのある人は少ないのではないだろうか。「『引く』日葡辞書から、『読む』日葡辞書へ―」、本書の紹介に付されるこの一文は、本書が、『日葡辞書』を、現代の我々がどう「引く」かでなく、当時の宣教師らがはたして「どのように読んだのか」という点を最も重視し、研究された書であることを示しているように感じる。

 本書は、『日葡辞書』全文を電子テキスト化し、網羅的に、かつ統計的に論じており、その一つ一つの論考はどれも手堅く、説得力がある。序章「日葡辞書とは」では、最初に『日葡辞書』の概要を示したうえで、第1章「日葡辞書の語釈」の中では、辞書中の語釈が、はたしてどのような仕組みでなされていったのか、明晰に説明していく。第1章第3節「訓釈-ローマ字で漢字表記を表すために―」では、見出し語の直後に配置される日本語注記=「訓釈」について、従来行われてこなかった詳細な検討がなされており、全編を通じてローマ字活字のみで組まれた、ローマ字本である『日葡辞書』が、この「訓釈」に、見出し語の漢字表記を想定させる役割を担わせていたことがうかがえる、と述べる。第1章の第4節以下では、辞書中に表記される注記に関して、その一つ一つの機能について詳細に論じられている。一例をあげれば、注記である「i,」(id est)や「l,」(vel)などは、『邦訳 日葡辞書』中ではそれぞれ「すなわち」、「または」と訳出されているが、それがどういったはたらきをなしているのか判然としなかった。本書ではその機能の違いについて詳細に論じられており、かつ、同時代のヨーロッパの辞書の中でのこれらの注記との、役割の差異にまで言及されている。第2章「日葡辞書の見出し語」では、日葡辞書の見出し語がどのような基準で選ばれていたのか、について論じられており、その論証の結果として、『日葡辞書』を「閉じた」性格の有する辞書と説明している。管見の限りでは、『日葡辞書』の性格に関して、ここまで端的に、明確に説明した研究はないように感じている。悉皆調査を行っているからこそできる指摘であると言えよう。第3章「日葡辞書の編纂方針」では、「序文」の二重印刷に着目することで、当時の編纂状況を推察する。全編を通じて、詳細な、重厚な論考が続くが、各章の末には、コラムも付されており、読み疲れることもない。

 以上、拙い紹介を書き連ねてきたが、本書が『日葡辞書』に「真正面から向き合ってなされた」研究書であることは紛れもない事実である。

 卒業論文から一貫して日葡辞書と向き合い続けた中野さんの、研究の一つの集大成としての本書の刊行を、心よりお喜び申し上げます。また、本書がより多くの方々の手に触れることを祈っています。

八木書店刊 A5判・258頁
初版発行:2021年3月25日 定価10,000円+税
ISBN 978-4-8406-2242-4 C3016

新学科長就任のご挨拶

新年度を迎えるにあたって

                                                          国文学科長・福井 辰彦

 2021年4月1日より国文学科長となりました。こうした重い役職に就くのは生まれて初めてのことで、ただただ不安でいっぱい、早くも少し胃がきりきりと痛み始めています。もっともそれ以上に、学科の先生方はじめ周りの方が、「あいつで大丈夫なのか?」とご心配のことと思います。ともかく誠実に職務に当たる所存ですので、長い目・広い心で、ご支援・ご協力の程、よろしくお願い申し上げます。

 さて、昨年度は新型コロナウイルス感染症の対応・対策に明け暮れた一年でした。状況はなお厳しく、警戒を緩めることはできませんが、それでも大学は対面授業を再開し、部分的に、少しずつではありますが、元の姿を取り戻そうとしています。

 そんな中、新年度、国文学科は61名の新入生を迎えることができました。感染症の影響のみならず、入試制度が二転三転するといった困難も乗り越えて、入学してきた新入生たちに敬意を表し、また心から歓迎いたします。

 入学早々、コロナ禍に見舞われ、大学に来ることさえ叶わなかった新2年生にとっては、この春が大学生活の本当のスタートだと言っても良いでしょう。一年生同様、あるいはそれ以上に、戸惑うこと、不安なことが多くあるだろうと思います。学科としても、よく注意を払い、適切な助言・手助けが出来るよう努めてまいります。

 3、4年生についても、一年の空白がどのような影響を及ぼしているか、学生たちの様子をよく見ながら、指導に当たりたいと思います。

 教員の方では、中古文学担当の本廣陽子先生が、一年間、研究休暇を取られます。代わりに東京大学の田村隆先生、実践女子大学の舟見一哉先生に、授業をご担当いただくことになっています。他大学の先生の授業を受けられる貴重な機会ですので、学生諸君には、積極的に受講して欲しいと思います。

 最後に個人的な所感を書くことをお許し下さい。

 学習指導要領の「改悪」に象徴されるように、国語・国文の軽視・蔑視は年々強まってゆくように見えます。夜郎自大そのものといった風の古典や伝統の曲解・悪用も散見されます。そして、そうしたことどもは、世の中を行き来する言葉が、軽く、空虚に、また粗暴になってゆく傾向と、どこかでつながっているに違いありません。

 「実社会で役に立つこと」「世の中のためになること」、それ自体を否定するつもりは、もちろんありません。しかし、昨今これらの言葉が使われるとき、それは結局「ゼニカネ」の話でしかないように感じます。目先の儲けや効率にしか目を向けない風潮の中で、言葉に敬意と畏怖と責任感を持ち、願わくはそこに古典的教養を「あや」や「うるおい」として添えられるような、そんな若者を育てるには、どうすればよいのか。愚かで不器用な私には、今のところこれといった妙案も浮かばないのですが、その志だけは失わずにいたいと考えているところです。

学会長挨拶

二〇二一年度 国文学会と大学院の近況

                    国文学会会長・国文学専攻主任 瀬間正之

 大学院の近況:昨年度は、新型コロナウィルス禍で、入学式もなく、一年間オンライン授業となりました。ガイダンスも、大学院の例会もオンラインでした。この三月の修了生は、前期課程の一名、満期退学者は後期課程の一名でした。

 本年度、大学院は、前期課程に四名の新入生を迎えました。後期課程は受験者からして0名に終わりました。昨年は定員ちょうどの三名の入学者を迎えましたが、前期課程修了者も一名でしたので、やむを得ません。したがって、本年度は、前期課程は八名、後期課程は六名(内、二名は三年以上在籍のため休学予定)となりました。分野別では、上代二名、中古四名、近世一名、近代三名、国語学四名です。留学生は、前期課程三名、後期課程一名と計四名と増加傾向にあります。

 明るい話題としては、最近の大学院修了者(課程博士号取得者)が今春、相次いで単著を刊行しています。葛西太一氏『日本書紀段階編集論』(花鳥社、二〇二一年二月)、中野遙氏『キリシタン版 日葡辞書の解明』(八木書店、二〇二一年三月)がそれです。ともに本学へ提出した博士論文が基になっています。また、葛西氏はこの三月、2020年度(第15回)漢検漢字文化研究奨励賞優秀賞を受賞しています。一昨年(第13回)の宮川優氏に続くものです。また、在学生では、黒川茉莉さんが、松下幸之助記念志財団の2020年度研究助成を獲得、本年度からは日本学術振興会特別研究員(DC2)に採用されています。

 国文学会の近況:昨年度は、周知のように、夏季大会は中止、冬季大会はオンライン開催でした。本年度は、夏季大会七月一〇日、冬季大会一月二二日を予定しています。会場は押さえてありますが、オンライン開催になる可能性は払拭できません。

 学会とは直接の関係はありませんが、昨年度秋にソフィア会に国文学科の同窓会が組織されました。学会の活性化にも繋がる慶事です。詳細は、https://www.sophiakai.gr.jp/news/faculty/2020/2020110501.htmlを御覧下さい。初代会長は、卒業生の湯浅茂雄氏(元実践女子大学学長、現教授)です。この三月の卒業式では、早速国文学科同窓会から卒業生に記念品が贈られました。また、学科に対しては図書費として寄付をいただいております。

会員新著紹介:葛西太一『日本書紀段階編修論 文体・注記・語法からみた多様性と多層性』

               宮川優(本学グローバル教育センター助教)

二月に、私の大学院の先輩である葛西太一氏がご著作を発表なさいました。
『日本書紀段階編修論 文体・注記・語法からみた多様性と多層性』と題され、その頭言に「本書では、日本書紀に〈正しさ〉を求めることに疑念を抱くことを旨とする。これまでに古訓や古注釈によって導き出された矛盾や誤謬の少ない是正された解釈を見直し、ありのまま書かれている通りに読解することを目指す。」(八頁)とある通り、私たちが敬愛する師である瀬間正之先生のご研究の流れを汲み、日本書紀の実証的な解釈を可能にするためのご調査、ご考察がまとめられた研究書です。
会員の皆様ならびに諸先生方にとっては読めば分かる紹介不要の本であるかと存じますので、ここでは皆様の周りにいらっしゃるかもしれない、上代文学に近寄りがたさを感じている方々や、私のような初学者を思い浮かべつつ、僭越ながら申し上げます。
葛西氏の後から上代文学を学ぶ私たちにとっては、新しい導き手となる、とても心強い一冊と思います。
私は、名立たる先生方の研究成果を前にいつも足が竦んでしまいます。おそらく、学部生を含めた初学者の皆様のなかには、少なからずそうした気後れのようなものがあると推察します。この本はその恐れを取り除き、研究とはどういうものなのかを明確に、そして懇切丁寧に語りかけてくれます。魅力あふれる上代文学の世界を先行研究の数々を繙きながら自然と学べる仕掛けが巧まず施され、可能な限り生の史料や文献に触れることや、多くの情報を鵜吞みにせず研究対象と向かい合うことをも、さりげなく励ましてくださっているように感じられます。
日本書紀研究の世界というものが三次元に存在するとしたら、今回、葛西氏はそれにx, y, z軸の座標を細かく示し、そこにぱっと光を照射して、この章あるいはこの節ではこの筋道を通ります、とレーザポインタか何かで辿ってみせてくださっているかのようです。丁寧に示された点を結び、同じく示された線をその向こうに透かして見れば、読み手は関連する知識の多寡にかかわらず、どのような側面について論じられているかを把握できます。
日本書紀を研究することの楽しさは私などが言い尽くせるものではありませんが、誰の手になるものか、どのように成立したかを明らかにするべくその跡を辿り考えを巡らすことは、その楽しみのひとつと言えます。
先行研究によって、日本書紀が複数の人々によって述作されたことが明らかにされており、現在に伝わる三十巻が成立した順序も含め、巻同士の関係性を論じる区分論が長らく研究の主流となっています。
第一章「文体・句読の差異からみた日本書紀」で照らされるのは、主にこの側面です。初出が「日本書紀の文体」(鈴木靖民 監修、瀬間正之 編修『「記紀」の可能性』所収、古代文学と隣接諸学一〇、竹林舎、二〇一八年四月二日刊)となっていますが、会員の皆様にとっては平成28年度冬季大会における「壬申紀の成立――日本書紀の句読と文体意識――」と題されたご発表もご記憶に新しいと思います。
葛西氏は従来の区分論にさらに踏み込み、句読の示し方を手掛かりに新たに甲乙丙丁の四区分を提示し、甲群と乙群との述作者が異なること、天武紀上下巻の述作者ないし述作段階が異なること等を指摘なさいました。
その鮮やかさ、面白さに頁を繰るだけで胸が躍りますが、このご研究の新しさは散文全体を対象とした網羅的な調査・検証によって従来の区分論との一致・不一致を認めたこと、さらに考究すべき幾つかの特徴的な記事を見出したこと等にあると考えられます。
それらの成果が図表を用いて先行研究の流れのなかに分かりやすく配置されていることや、「腑分けして調査をする」「調査結果を統合して考察する」という研究のふたつの方向性を追体験できる分かりやすい解説が読み手に楽しさをもたらしてくれます。
この楽しさは、第二章、第三章においても引き続き提供されます。
第二章「注記・表現の重複からみた日本書紀」には第一章の成果が展開され、日本書紀の述作や編纂をを基層・表層・深層の折り重なった多層的なものと捉えたうえで、その方針や構想がいかに変化して現存する本文を成り立たせたかが明らかにされます。検証の焦点は丙群の内部に絞られ、表記とそれによって指示される内容とを行き来しつつ論が進められます。
このうち第四節「『頼』字の古訓と解釈」では、「対象語句を古典中国語の枠組みの中で捉え、外国語そのままに解釈を行おうとする視点」と「対象語句の背景に当時の和語ないしは和語に基づく訓読のあることを前提として、これを古典中国語によって表記した翻訳語として解釈を行おうとする視点」との、二つの視点のいずれをもって日本書紀を読解すべきかという研究課題が提示されるとともに、「古訓」に関しても、その有用性の検証や、それが示す解釈と古典中国語としての解釈との齟齬に関する考察の必要性が説かれます(一五〇頁~一五一頁)。これはそのまま第三章への澪標となっている部分で、「経典や史書に範を求めた文言文」「六朝美文」「俗語小説にみられる表現」「漢語を和化した表現」「和語を漢字で表したもの」等、日本書紀に様々な表現が混在していることを読者に説いたうえで、介詞「頼」の用例に一つひとつ当たって各々の特性を明らかにし、そこに日本書紀の編纂段階と編纂方針の転換を見ています。
第三章「語法・表記の揺らぎからみた日本書紀」に至り、論は最高潮に達します。漢籍や古辞書における用例と日本書紀における用例とを具に対照し差異を見極めることによって、任意の漢語表現が有する背景に迫り、そこにどのような意味があるのかを炙り出します。その検討は時間軸・空間軸が念頭に置かれ、語義、語法、語序、文脈といったあらゆる角度から為されます。
一冊を読み終える頃には、日本書紀の多様性・多層性の有り様が、先行研究の多様性・多層性と共に感得せられます。
終章において葛西氏は、「日本書紀の特質は、これまでにも多元性や複数性という言葉によって形容されてきたように、多層性と多様性が緩やかに包摂されている点にある。」「日本書紀に見られる多層性と多様性は、不作為に起因するものと捉えるには規模が大きく、むしろ意図的に残されたととらえるべきように思われる。」と指摘なさっています(三五〇頁~三五一頁))。ここに示された見通しは私たちにとって灯台のようなものに感じられます。
そして、頭言で述べられているように日本書紀を書かれている通りに読解することの意味がしんと沁みてきます。
他分野を研究なさっている皆様にも上代の文学研究の最先端をぎゅっと凝縮した一冊としてお楽しみいただけると思いますので、是非お手に取ってご覧ください。
研究書を普段はお読みにならない方々にもお勧めいたします。その醍醐味を余すところなく味わっていただけると思います。

(花鳥社、二〇二一年二月二八日刊)A5版三五九頁+索引八頁

学科長退任のご挨拶

学科長の役目を終えて

長尾 直茂

 この三月で五年間の学科長の任期を終えた。本来は二〇一五年四月にその任に着かなければならなかったのであるが、当時研究機構長という役職の二期目の最後の年度にあって、どうしても引き受ける事が出来ず、服部先生に一年間の約束で学科長をお引き受け願った。しかしながら、不測の事態で研究機構長の役職の三期目を引き受けざるを得ない状況となり、止むなく二〇一六年四月から研究機構長と学科長の二足の草鞋を履くことになった。裸足でいることを好む者が二足も履かされるのであるから、歩きづらいこと甚だしかった。結局、二年間は歩いたり立ち止まったりしながらも、二足の草鞋で過ごした。

 その後、三年間は学科長の仕事に専念したわけであるが、別に何か特段のことをやったわけではない。大きな改編期にあったわけでもないし、比較的平穏無事な時期の方が多かったように思う。というよりは、おそらく五年間の任期中にやらねばならかった事が多々あったのかもしれないが、ルーズな私が何も手を着けず、無理矢理に平穏無事にしてまったのであろう。かく平穏無事であったと思い込もうとしている任期中に、忘れられないことがある。その一つは、二〇一八年二月に木越治先生が他界されたことである。

 木越先生には、定年退職後も非常勤講師として学科をバックアップして頂いており、近世文学の分野は先生に全幅の信頼を寄せて学科のカリキュラムを考えていた。そのため先生のご体調が深刻なものであることを知りながらも、無理を願って年度末の成績処理や次年度の講義準備等をお願いし、先生に更なるご負担をお掛けすることになってしまった。先生が突然に亡くなり、学科長の私と事務の重村さんとで葬儀に参列して御霊前に額づいたが、その申し訳なさは今も消えることはない。

 もう一つの忘れられぬ事は、やはり本年度に猖獗を極めたコロナウィルス禍である。昨年度末の卒業式が中止となった頃から大学の学事暦は何度も変更を余儀なくされ、あれよあれよという間に大学における様々な活動は制限され、講義すら危ぶまれるような状況に陥った。その頃のことは、あまり思い出したくないのであるが、いま思い出されるのは、来る日も来る日もコンピュータに向き合ったことである。日々数多くのメールを読み、数多くのメールを発信した。机に就いてコンピュータを開くことから毎日が始まり、メールをチェックし、その対応のための文書を作成し、今度はこちらからメールを返信する。Zoom講義が始まると、事務作業の合間にコンピュータに向かって講義を行うという日常が新たに加わった。コンピュータ無しでは、もう何も出来ないという新たな日常であった。こうした日常を経験した身として、ひしひしと感ずるのは、もう以前の日常をそのままの形で取り戻すことは出来ないであろうということである。おそらく今後の大学は、私が学科長であった五年間とはまったく違うところへと漕ぎ出してゆくのであろうと思う。しかし、次の学科長である福井先生が巧みに舵取りをして下さるであろうから、その新たな航海への不安はまったくない。

 さて、学科長の任期を終えたので待望のサバティカル・リーブに入りたいと考え、今度はロンドンのSOASに行ってみたい、その頃にはコロナも下火になっているだろうから、ソーホーでアイリッシュビールをチェイサーにジンを呷ってやろうなどと夢想して、独りほくそ笑んでいたが、残念ながら夢は破れた。二〇二一年四月から文学研究科委員長という見当もつかぬような役職に就くことになった。学科長の時と同じく、多くの人に迷惑を掛けることになるかと思うと、ただただ気が重い。