会員新著紹介:原貴子『森鷗外の現代小説 不平等のなかの対等』

上智大学大学院文学研究科国文学専攻博士後期課程 木村素子

 森鷗外の現代小説は主に明治40年代に発表され、小説内時間を発表された同時代に設定していることから、作家・森鷗外像を考察するための作家論の立場から論じられる傾向があった。本書においては、各論文毎に示される「問題のありか」において、先行研究が整理されており、そこには作品と真っ正面から向き合う論がこれまで少なかったことが暗に提示されている。

 本書は鷗外の現代小説から8作品を対象として、大きく6章で構成されている。それを作家論的ではなくテクストとして捉え、これらのテクストに「対等」の意識が通底していることを、全体を通して詳らかにしている。

 「Ⅰ 対等への志向」は、論者が本書全体の「見取り図」と位置づけたように、本書の総論であり結論とも言える章段である。この章では鷗外の現代小説の特質として、「不平等のなかにおいて平等に価値を見出し、対等な関係性を希求し探求する姿勢」を指摘する。この「対等」とは、「自己と他者との間に、さまざまな点で優劣・上下が生じていながら、主に他者に対する敬意に由来して包括的には他者と自己を横並びの存在として認識し、定位しようとする精神性」と定義している。この「対等」意識が現代小説においてどのように描出されているのか、各論としては取り上げていないテクストをも視野に入れながらまとめている。「Ⅱ 人種」では、「大発見」・「花子」に見られる、人種間における不平等のなかの「対等」を考察する。特に「花子」では、ロダンと花子の間には人種的序列などの不平等が存在するが、一個人として向き合う際には不平等のない人間同士のやり取りが行われているとして、この関係性に不平等のなかの「対等」を見出している。「Ⅲ 職業」では、職業上の不平等について「吃逆」・「里芋の芽と不動の目」を題材として考察している。「吃逆」で描かれるのは、待合における芸者と知識人の客とのやり取りである。芸者を下位に、客を上位に置くことが制度として定まっている場において、芸者の問いかけに真摯に対応する客は、制度を越えた一対一の関係性を築いたのであり、芸者を一人の人間として扱っている。ここに行為としての「対等」が成立していると論じる。「Ⅳ 下層社会」においては、異なる社会的階層を生きる人々や、下層社会に生きる人間の姿を描く「仮面」・「牛鍋」を考察の対象としている。特に「牛鍋」において描出される、下層社会における「本能」の争いと助け合いという問題において、クロポトキンの『相互扶助論』の内容に通じる点があることを指摘した上で、論理と実践の間には大きな障壁があり実践に移すことの困難さを示したテクストであると論じる。「Ⅴ 欲望」の章では、「鶏」の登場人物「石田小介」とは如何なる人間か、という問題点と、乃木希典表象との関連性という問題点の二つを大きな問題意識として取り上げ、精緻な論を展開している。「石田」の他者に対する言動を基にその認識を考察すると、特有の倫理観や価値観を有しているものの、相手に歩み寄る柔軟性や寛容さを持った人物であるということができる。そしてこの精神的な柔らかさは、社会的な立場の違いなどに左右されることがない。また、作中で「石田」が生活態度の基準としているように見える「野木」は、乃木希典をモデルとしている。このことから当時の乃木表象を、新聞や乃木に関する書籍、職場を共にした人物の手記などから多角的に追究している。類似点もあるものの、生きる認識においては、大きな違いがあることを指摘し、性格の捉え難さ故に乃木の直接の影響を「石田」に見出そうとする先行論とは一線を画している。「Ⅵ 制度」では、「蛇」に登場する理学博士「己」の言動が小説の中核を成しているとして、他者と直接話法で会話をする場面に、「己」の明確な認識を見出すことを第一の問題提起としている。第二の問題は「蛇」という作品に対してこれまで言及されることのなかった、明治44年前後の普通選挙運動と、「己」の発言が関連性を持っていることに焦点を当てている。教育歴や経済力といった外的条件によって人間の上下を判断するといった考え方が社会で共有されていたという問題を、普通選挙運動を巡る言説の中に見出し、この考え方と対極にある考えを持つのが「己」であると位置づける。「己」は外的条件ではなく、「理性」の有無、つまり自らの観念を現実に合わせて再編成していくことで、自己を新たに生成することができるか否かという基準で人間を識別する考えを持つ。この「己」の考え方は、普通選挙運動が内包する観念への批判となっていると論じ、強い関連性を指摘した。

 本書の特徴は、テクストの〈読み〉と文化的コンテクストに対する精緻な〈調べ〉が確かに手を取り合っていることであろう。それ故に考察は重厚、抜かりのない調査は同時代の空気を私たちの眼前に再現してくれる。そして、この特徴が最もよく表れているのを私は、「Ⅴ 欲望」及び「Ⅵ 制度」の章に見る。この、〈読み〉と〈調べ〉の強い結びつきという手法は、森鷗外研究のみならず、近代文学研究に刺激を与えるものと思われる。

花鳥社

A5判・270頁

2021年3月30日(初版)

定価4,200円+税