図書館6階国文学研究室利用規程

 

L号館(図書館6階)国文学研究室利用規程 (平成30年度)

  1. 開室時間:月曜 ~ 金曜 原則として 12時30分 ~ 17時30分
  2. 休室日:土曜日、日曜日、国民の祝日(授業実施日を除く)、図書館の休館日、学則に定められた休日、および、その他特別の事情がある場合。ただし、春期・夏期・冬期休暇中の開室については別途に定める。
  3. 登録研究室の利用にあたっては、必ず受付で所定の登録手続きを行うこと。
  4. 図書の閲覧・帯出
    1. 室内閲覧:特別な手続きは必要としない。閲覧後、必ず元の場所へ戻すこと
    2. 館外帯出:館外帯出用紙に必要事項を記入の上、図書館一階の貸出カウンターで磁気処理の手続きを行い、帯出する。
      返却の際には、帯出時と同様に図書館一階の貸出カウンターで磁気処理の手続きを行い(注1)、研究室の受付に返却する。帯出期間は1週間。冊数は大学院生5冊、学部生が2冊までとする。
    3. 国文学科専任教員・国文学科学生・大学院国文学専攻院生(研究生を含む)以外の利用については別途に定める。(注2)
  5. 複写複写の際は、複写帯出の手続きをとり、館内の複写サービスを利用する。複写後、必ず開室時間内に返却すること。* なお、受付業務は国文学専攻大学院生が交替であたる。

    (注1) 館外帯出する際は、研究室受付にて受付担当者が図書に黄色のスリップをはさむ。
    これは、図書館一階の貸出カウンターで磁気消去の手続きを行う時、また、返却の際に磁気再生の手続きを行う時に重要なものであるから紛失しないように注意すること。
    (注2) 国文学科専任教員・国文学科学生・大学院国文学専攻院生(研究生を含む)以外の利用について次の通りとする。

    所属・資格 手続 図書の利用
    他学科・他専攻の学生及び教職員 「国文学研究室利用願」を提出し学生証・身分証明書を提示する 室内閲覧のみ、複写可
    本学卒業生、院修了者で館友会員の者 国文学科専任教員の紹介を得て、「国文学研究室図書閲覧願」(様式A)を提出し、国文学専攻主任の許可を得ること。(所属教育機関の紹介状を求めることもある) 室内閲覧のみ、複写可(許可された期間内)
    本学卒業生・院修了者で館友会員ではない者、学外者 あらかじめ、国文学専攻主任あて「国文学研究室特別閲覧許可願」(様式B)を提出し、必ずその許可を得ること。(所属教育機関の紹介状を求めることもある) 同上(原則として利用は一日)

     

木越治先生葬儀之記

木越治先生葬儀之記

国文学科教授 長尾直茂

平成三〇年三月三日午後六時より桐ヶ谷にて木越先生の逮夜が執り行われた。先生らしい無宗教の音楽葬というスタイルであった。〝先生らしい〟とは、あれほどまでに怪異の世界にこだわり、そして生涯にわたって科学的に研究された先生が、自らの最期までを客観視されようとするかのような潔さを無宗教というスタンスに感じたからにほかならない。そして、斎場に流れるジャズやクラッシック、流行歌などの様々な楽曲を聴きながら、(先生はいつも研究室で音楽を聴いておられたなあ)と懐かしく想い返したからでもあった。時にはお気に入りの志ん朝の人情噺をしんみりと聞き入っておられることもあり、かと思えばウェザー・リポートのファンクなグルーブ感いっぱいの音楽を大音量で聴いておられることもあり、いずれも好みにかなって、私も洩れ来る音源をこっそりと御相伴したことであった。

逮夜では奥様が挨拶に立たれ、病気の経過等を説明された。抗癌治療が功を奏し始めた矢先の逝去であった事、そして「リハビリがしたい」と最期におっしゃって先生は他界された事等のお話をうかがい、何とも遣り切れない気持ちで胸が一杯になった。記憶が朧気ではあるが、斎場にはクリフォード・ブラウンの名盤「ウイズ・ストリングス」からの曲が流れていたような気がする。ブラウニーの奏でるトランペットがこんなにも哀しい音色であることを、これまで知らなかった。

献花の後、別室で酒食のご接待に与った。見知った顔の方がたくさんおられたが、酒を飲む気にならず、早々と席を抜け出した。人気のない斎場の柩の中に、先生はこれまで拝見したこともない表情で静かに静かに眠っておられた。

明日四日の午前一一時より葬儀が行われた。昨日同様に無宗教の音楽葬というスタイルであった。友人を代表して渡辺憲司先生が弔辞を述べられた。若い頃からの木越先生との交遊をしゃべられた後、最後になって柩に向かって〝木越〟と呼びかけ、「おまえのいない学会なんて面白くないから、もう行きたくない」と言われた。思わず目頭が熱くなった。

音楽葬の掉尾を飾ったのは、ジュリー・アンドリュースの唄う「サウンド・オブ・ミュージック」であった。この曲が先生に捧げられ、皆は静かに聴き入った。あのジュリー・アンドリュースの澄み切った美しい歌声は、まるで聖歌のように斎場に響いた。正しく音楽の調べThe sound of musicとともに先生の御魂は天に昇ってゆかれたのではないかと思う。この後先生は荼毘に付されて、私どもの知る先生はこの世からおられなくなった。皆と別れて独り横須賀線に乗って帰る途中、電車は大きな音をたてて鉄橋に入り多摩川を渡った。ふと向こうに丸子橋が見えた。(木越先生はあの辺りに住んでおられたのだった)と思い、いっそう切なくなった。

木越さんとの旅

木越さんとの旅

国文学科教授 豊島正之

上智大学に移って2年目の2014年度の冬、運良く重点研究予算を頂いた私は、木越さんと大学院生二人と共に欧州を旅した。版本キリシタン版・キリシタン写本の紙、本の重み、インキの載りなど、書物としてのキリシタン文献の姿を木越さんに見て・触れて貰い、その生産現場へ思いを馳せる木越さんの姿が見たかった。このため、手動プレス印刷時代の印刷所の姿をそのままに残すプランタン・モレトゥス印刷博物館(アントワープ)も旅程に組入れ、リスボン・エボラ・ブリュッセル・アントワープ・パリの五都市を訪問する忙しい旅となった。

木越さんは、建前がお嫌いである。怪しいロジックで武装しても、本音を言って見ろと急所を突いて来る。旅の途中に、キリシタン版の技術に就て色々と御下問があった。論文に書き、書物にもし、講義でも繰り返した説明を並べ立てていると、「で、それは何故なの?」と来る。容赦無く掘り下げ続ける御下問に、手の内の材料を使い尽して応戦これ努めるうち、どうしても説明出来ない、もはや命題というに値しない、単なる思い込みの様なものに到達する。「で、それは何故なの?」「論証出来ないけど、これ以外には思いつかない」と白状すると、ようやく御満悦である。専門分野でもこの手で丸裸にしてるのなら、近世文学を専門にしなくて本当によかった、とつくづく思った事だった。

プランタン・モレトゥス印刷博物館では、当時のプレス印刷機に吸い寄せられる様に近付いて詳しく観察され、夥しく並んだ活字箱を見ながら、「たったの50文字(大小アルファベット)でこれ(この規模)なら、仮名・漢字はどうしたんだ」という、これまた本質を突く疑問を呈され、やむなく「イエズス会の漢字字書(「落葉集」)は、実は活字索引だった」という(根拠も何も無い)思い込みを披露するに及んで、ようやく満足された。

夜行便で到着した初日のリスボンの昼、ポルトガルらしい素朴な野菜のポタージュを評価されたのは意外だったが、ブリュッセルはやはり別格だった様で、夜のグラン・プラスの絶景に接しての「これがヨーロッパですか!」の一言は忘れられない。そのグラン・プラスの地元料理屋に、ベルギービールの長いリストがある。木越さんは、一日目の晩に、そのほぼ半分を試された。翌晩もその店で残りの半分を飲みたいというから閉口した。その店の料理は、豚肉をリンゴとじゃがいもと一緒にココットに放り込んで蒸し焼きにした様な素朴極まるもので、ビールリストのためだけに何も裏を返さなくてもと思うのだが、目録にある限りはコンプリートせずには置かないという気質を、ここにも発揮された様だった。

これに懲りて、パリの店は全て勝手に決めた。中でも、季節のBelon(ブロン)の牡蠣を召し上がって頂けたのは幸運だった。Belonは、普通の牡蠣の数倍の値が付く。その店の最後のBelon 6個を注文し、全て木越さんに食べて頂いた。「四つめを飲み込んだあたりから、ようやく味が分かって来た」との御感想だったが、正にBelonの精髄を味わって頂けた事になる。

木越さんとは、拙作のパソコン用ソフトウェアを愛用して頂いたりで、30年以上のお付き合いになる。秋成を題材にした「国文学のためのPython入門」の共著の計画もあったが、私の怠惰のために機を逸したのが心残りである。

追憶の断章

追憶の断章

就実大学表現文化学科講師 丸井 貴史

向田邦子の『霊長類ヒト科動物図鑑』(文春文庫)に、「泣き虫」というエッセイが収められている。父が急死したあと一度も泣くことがなかった向田は、四十九日が過ぎたころ、友人たちと京都に出かけた。そこでいつものように珍味屋に立ち寄って土産を買い、「このわたも入れてくださいね」と店員に頼んだ直後、このわたが好きな父はもういないのだということに思い至り、気づいたときには涙が止まらなかった、という内容である。

私はこのエッセイのことを木越先生から聞いた。授業中だったか何かの雑談の折だったかは定かでないが、先生は向田のこの経験を、「浅茅が宿」(『雨月物語』)の勝四郎が妻宮木の死に気づく場面に引きつけてお話しになった。「宮木はすでに死んでいるのではないかと疑っていたはずの勝四郎が、彼女の死を「はじめて」確信したのが辞世の歌を目にしたときというのはあまりに鈍すぎるのではないかと思っていた。しかし、向田のエッセイを読み、自分もそれに近い経験をしたときに、この描写が人間の本質を的確に捉えた描写であることに気がついた」と。

 

先生が亡くなったことを奥様からの電話で知らされたのは、2月24日のことだった。現実に起こった出来事を、あれほど現実として捉えられなかったことは過去にない。関係各所に連絡を回しながら、私は実に淡々としていた。お通夜と告別式に参列したときも、ご遺族の涙に胸の塞がる思いがしたのは確かだが、先生の死はまったく実感を伴わなかった。穏やかに目を閉じておられる先生の姿を前にしてもなお私は泣けず、自分はこれほどまでに薄情で恩知らずだったのかと自己嫌悪にも陥った。

ところがその数週間後、岡山への転居が無事に済み、ようやく仕事ができるようになった日の夜、私は向田や勝四郎と同じ経験をすることになる。パソコンを立ち上げ、しばらく放置していた論文のファイルを開き、原稿を書き始めようとしたまさにそのとき、不意に涙が出てきたのである。

胸を躍らせながら先生の授業に出て、憧れを抱きながら先生の論文を読み続けてきた私にとって、先生を唸らせるような論文を書くことは、夢そのものに他ならなかった。しかし、その夢はもう叶わない。書きかけの論文を前にして、私は「はじめて」そのことを覚ったのだった。

 

気づいたら、木越先生と出会ってから13年が経っていた。

金沢大学文学部1年生のとき、必修科目のオムニバス講義「文学研究入門」で、私はたまたま木越先生ご担当の回に発表をすることになった。確かそのときも「浅茅が宿」が題材だったはずである。後期の教養科目「日本文学入門」では、膨大な量の本を読むことが課題として与えられた。本をまったく読まない高校生だった私は、ここで文学を学ぶための基礎体力を身につけた。2年生で日本語学日本文学コースに進み、初めて受講した木越先生の授業は、『業平集(在中将集)』についての講義だった。その講義の虜になった有志数人で「業平集研究会」を立ち上げたところ、先生は顧問になってくださり、東京へ訪書旅行に連れていってくださった。東京大学の国文学研究室や国立国会図書館の古典籍閲覧室には、そのとき初めて入った。暴風のため金沢に帰れなくなり、先生のご長男である祐介さんの家に泊めていただいたことも懐かしい。3年生のときには大学院の演習に参加させていただき、『英草紙』について発表した。その拙い発表は先生のご助言を受け、7年後に「方法としての二人称―読本における「你」の用法をめぐって―」(『読本研究新集』第7集)という論文に結実した。4年生になったときには「卒論のことばかりやっていたら、卒論は小さなものになってしまう」と、勉強会を開いてくださった。大塚英志や大澤真幸の評論を読んだ記憶がある。そして大学院に入る一月ほど前、突然電話がかかってきて、「来年から1年中国に行ってこい」と言われた。「これからは白話小説をやらなきゃだめだ」という言葉の意味がわからないまま中国に行き、結局ずっと白話小説と関わりながら、私は研究を続けている。

 

留学することが決まったとき、先生は「修論はちゃんと面倒みてやるから心配せずに行ってこい」と送り出してくださった。そして私が中国に行った直後、上智大学へ移られた。日本に戻ってきたとき、先生は「上智で学位を目指してみないか」と声をかけてくださった。そして私が学位論文を出す前に退官された。学位を取得したとき、先生は「あとは就職だな」と励ましてくださった。そして私が専任講師として就実大学へ赴任する直前、鬼籍に入ってしまわれた。

何をするにも、いつも私は一歩遅い。だから最後のお礼も言えなかった。

 

先生から学んだことはたくさんある。それは疑いないことだ。しかし私は、いったい何を先生から学んだのだろう? 次にお会いするときまでに、それを言葉にできるだろうか……。

 

そんなことを考えていたら、「くだらないこと考えてないで、さっさといい論文書けよ」と声が聞こえた。

そうします。

最後まで不肖の弟子ですみません。

 

平成30年4月24日

丸井 貴史

ご一緒した釜山と台南

ご一緒した釜山と台南

国文学科教授 瀬間正之

木越さんと言えば、忘れられないのは、二〇一四年夏、院生・教員二〇名で参加した釜山大とのシンポジウムの際、三晩続けてナクチ(手長蛸)の活き作りをご満悦そうに頬張る姿である。生きたままのナクチを刻み、ごま油と塩をかけただけのお手軽料理であるが、韓国人でも蠢くその光景に敬遠する者もいる。シンポ前日のチャガルチ市場で味をしめられたのか、翌日、翌々日と連続して立ち寄った西面の屋台でもナクチを所望され、取り憑かれたように食されていた。屋台では、飲んだ焼酎の空き瓶を一列に並べる提案を出され、隣の店から借りてくるほど大量に消費した空き瓶が一列に並ぶ光景は胸が空く思いであった。

二〇一七年新春には、院生と小林さんを混じえた数人で台湾旅行にご一緒した。木越さんの故郷金沢の偉人八田與一技師が稲作灌漑用に造った台南の烏山頭ダム見学では、八田與一像と2ショット。これまたご満悦であった。夜は小林さんの部屋で毎晩シーバスリーガルを飲んだ。このシーバスもすっかり気に入られたようであった。飲みながら当時の韓国映画についてご紹介したところ、帰国後早速その「国際市場で会いましょう」を御覧になったとのメールがあった。感涙なしに観られなかったということで、その後韓国映画を見歩く趣味を持たれたようである。

よもや、台湾旅行から一年余りで急逝されるとは思いも寄らなかった。おいしそうに飲む姿と幸せそうに食べる姿ばかりが焼き付いている。その姿を思い起こす度にこちらも幸せな気分になる。

『国文学論集52』 投稿募集

国文学論集52号投稿募集
国文学論集次号(52号)は、2019年1月発行予定です。
御論文の御投稿をお待ちします。
締切は、2018年9月12日(水) (消印有効)です。
投稿規定は、論文投稿規定又は国文学論集51号を御覧下さい。

国文学論集 投稿規程

  • 投稿資格は、国文学会会員とする。
  • 投稿の量は、400字詰め原稿用紙40枚以内(注記・図表等を含む)とし、縦書きを原則とする。
    原稿用紙に拠らない場合は、用紙はA4判とし、一ページは、縦書きの場合52字×18行、横書きの場合36字×26行(ページあたり936字)とし、17ページ以内とする。必ず各ページにノンブル(ページ番号)を付す事。
  • 完全原稿とし、未発表論文(口頭発表を除く)に限る。
  • 提出先は、
    〒102-8554 東京都千代田区紀尾井町7-1
    上智大学文学部国文学科内 上智大学国文学会事務局
    とする。
  • 審査は、理事会のもと、複数の専門家の査読のうえ、採否を決定する。
  • 採否にかかわらず、応募論文は返却しない。
  • 論文掲載者には、掲載誌2部、抜刷40部を贈呈する。

平成30年度夏季大会発表者募集

今年度の夏季大会は、2018年7月7日(土)に、上智大学にて開催します。
発表御希望の方は、2018年5月7日(月)までに、お申し込み下さい。
学会理事会にて発表者を決定し、その結果を御通知します。

1. 発表者名・所属
2. 発表の題目(仮題でも可)と発表要旨(200~400字程度)
3. 発表時間は30分とします
4. 応募先:
〒102-8554 東京都千代田区紀尾井町7-1 上智大学 文学部国文学科内
上智大学国文学会事務局
電話・FAX 03-3238-3637
e-mail: jouchikokubungakkai@yahoo.co.jp

『国文学論集51』の刊行

『国文学論集』第51集を刊行しました。

目次は以下の通りです。

〈論文〉
「梶井基次郎「檸檬」論―《病》を生きる「私」」    村山麗
「キリシタン版『日葡辞書』の訓釈について                                          ―『落葉集』定訓との対照を中心に―」   中野遙
「バチカン図書館蔵バレト写本の基礎的考察」      豊島正之

〈平成二十八年度国文学会冬季大会シンポジウム概要〉
「『源氏物語』―解釈と教授法」

大学院近況(2018年4月)

国文学科専攻主任 西澤美仁

学位取得が相次いでいる。昨年、
1.丸井貴文『近世中期文学と白話小説―初期読本成立史の再構築―』
を紹介した。丸井氏は本年4月から、岡山の就実大学人文科学 部表現文化学科の講師に就任したが、昨年度は
2.遠藤佳那子『近世後期テニヲハ論の展開と活用研究』
3.原貴子『森鷗外の現代小説―対等・平等の探求―』
が続いた。2年間で3人の博士取得はかつてなかったことで、さらに二、三の院生がそれに続こうとし ている。大学院に活気が甦ってきた、と言っていい状況なのであろう。

とはいえ、現役院生の人数は増えていない。前期課程に3名新入生が入ったが、前期課程から1名修了者が出、後期課程から2名満期退学者が出たので、昨年度と同数の11名が本年度の在籍数である。人数は増えていないが、質的な向上は間違いないので、やがて桃李の下に人は集まるはずである。

桃李ではないが、今年は桜が例年になく早く開花して、3月のうちに散ってしまった。大学院学位授与式(修了式)のあと、真田堀の花の下で花見の宴を開くことは、例年どおりできたが、入学式には間に合わなかった。まるでその代わりのように、今年は奇妙な駆け引きを見た気がした。旧暦2月15日が3月31日に あたって、3月24日に満開宣言をした東京ではちょうど7日目だったのである。万葉1748に「七日はすぎじ」とあり、山家集81に「散らぬ七日」とある、満開の最後の1日に、「如月の望月」の方から合わせてきた感があった。月の引力ではないが、引き寄せられた、という感じだ。

花の下から月を見た方はどれくらいいらっしゃるだろう。私自身は、西行学会から西行生誕九百年祭実行委員長を仰せつかっていたので、たのしみにはしていたが、40年来の友人の急逝に遭って、望月は葬儀場の屋根の上に見た。先を越されてしまうと、その終生忘れられない構図の上書きには意味がないように感じられるばかりで、帰宅後は花見に出かけなかったが、私にはまだ早い、と自分に 言い聞かせようともしていた。

そういえば、30年ほど前に西行八百年御遠忌が行われたころは、何年も続けて、雪月花が実現した。「風流とは寒いものだ」の名言を残して、吉野で雪月花を堪能した翌年に逝った山本健吉の『雪月花の時』(1988角川書店)などを思い出すが、私も雪と花吹雪が交錯する上野に月を見に行ったりした。御遠忌の記念出版として『西行関係研究文献目録』(1990貴重本刊行会)を編んでいたころだった。西行の引力ということになるのだろうか。花は咲き、散るものである。月は毎月満ち欠けを繰り返す。しかし、わざわざ桜の満開の花のしたまで行って、花越しに満月を見ようというのは、明らかに文学的行為である。私達は、生活や記憶の中にいくつ 文学的行為を持っているだろうか。

つい思い出話の方が長くなった。年は取りたくないものである。山本健吉が「雪月花の時」の典拠を白氏文集に求めると、花は桜ではなくて、梅や桃李になると書いていたのに引き寄せられたらしい。