追憶の断章

追憶の断章

就実大学表現文化学科講師 丸井 貴史

向田邦子の『霊長類ヒト科動物図鑑』(文春文庫)に、「泣き虫」というエッセイが収められている。父が急死したあと一度も泣くことがなかった向田は、四十九日が過ぎたころ、友人たちと京都に出かけた。そこでいつものように珍味屋に立ち寄って土産を買い、「このわたも入れてくださいね」と店員に頼んだ直後、このわたが好きな父はもういないのだということに思い至り、気づいたときには涙が止まらなかった、という内容である。

私はこのエッセイのことを木越先生から聞いた。授業中だったか何かの雑談の折だったかは定かでないが、先生は向田のこの経験を、「浅茅が宿」(『雨月物語』)の勝四郎が妻宮木の死に気づく場面に引きつけてお話しになった。「宮木はすでに死んでいるのではないかと疑っていたはずの勝四郎が、彼女の死を「はじめて」確信したのが辞世の歌を目にしたときというのはあまりに鈍すぎるのではないかと思っていた。しかし、向田のエッセイを読み、自分もそれに近い経験をしたときに、この描写が人間の本質を的確に捉えた描写であることに気がついた」と。

 

先生が亡くなったことを奥様からの電話で知らされたのは、2月24日のことだった。現実に起こった出来事を、あれほど現実として捉えられなかったことは過去にない。関係各所に連絡を回しながら、私は実に淡々としていた。お通夜と告別式に参列したときも、ご遺族の涙に胸の塞がる思いがしたのは確かだが、先生の死はまったく実感を伴わなかった。穏やかに目を閉じておられる先生の姿を前にしてもなお私は泣けず、自分はこれほどまでに薄情で恩知らずだったのかと自己嫌悪にも陥った。

ところがその数週間後、岡山への転居が無事に済み、ようやく仕事ができるようになった日の夜、私は向田や勝四郎と同じ経験をすることになる。パソコンを立ち上げ、しばらく放置していた論文のファイルを開き、原稿を書き始めようとしたまさにそのとき、不意に涙が出てきたのである。

胸を躍らせながら先生の授業に出て、憧れを抱きながら先生の論文を読み続けてきた私にとって、先生を唸らせるような論文を書くことは、夢そのものに他ならなかった。しかし、その夢はもう叶わない。書きかけの論文を前にして、私は「はじめて」そのことを覚ったのだった。

 

気づいたら、木越先生と出会ってから13年が経っていた。

金沢大学文学部1年生のとき、必修科目のオムニバス講義「文学研究入門」で、私はたまたま木越先生ご担当の回に発表をすることになった。確かそのときも「浅茅が宿」が題材だったはずである。後期の教養科目「日本文学入門」では、膨大な量の本を読むことが課題として与えられた。本をまったく読まない高校生だった私は、ここで文学を学ぶための基礎体力を身につけた。2年生で日本語学日本文学コースに進み、初めて受講した木越先生の授業は、『業平集(在中将集)』についての講義だった。その講義の虜になった有志数人で「業平集研究会」を立ち上げたところ、先生は顧問になってくださり、東京へ訪書旅行に連れていってくださった。東京大学の国文学研究室や国立国会図書館の古典籍閲覧室には、そのとき初めて入った。暴風のため金沢に帰れなくなり、先生のご長男である祐介さんの家に泊めていただいたことも懐かしい。3年生のときには大学院の演習に参加させていただき、『英草紙』について発表した。その拙い発表は先生のご助言を受け、7年後に「方法としての二人称―読本における「你」の用法をめぐって―」(『読本研究新集』第7集)という論文に結実した。4年生になったときには「卒論のことばかりやっていたら、卒論は小さなものになってしまう」と、勉強会を開いてくださった。大塚英志や大澤真幸の評論を読んだ記憶がある。そして大学院に入る一月ほど前、突然電話がかかってきて、「来年から1年中国に行ってこい」と言われた。「これからは白話小説をやらなきゃだめだ」という言葉の意味がわからないまま中国に行き、結局ずっと白話小説と関わりながら、私は研究を続けている。

 

留学することが決まったとき、先生は「修論はちゃんと面倒みてやるから心配せずに行ってこい」と送り出してくださった。そして私が中国に行った直後、上智大学へ移られた。日本に戻ってきたとき、先生は「上智で学位を目指してみないか」と声をかけてくださった。そして私が学位論文を出す前に退官された。学位を取得したとき、先生は「あとは就職だな」と励ましてくださった。そして私が専任講師として就実大学へ赴任する直前、鬼籍に入ってしまわれた。

何をするにも、いつも私は一歩遅い。だから最後のお礼も言えなかった。

 

先生から学んだことはたくさんある。それは疑いないことだ。しかし私は、いったい何を先生から学んだのだろう? 次にお会いするときまでに、それを言葉にできるだろうか……。

 

そんなことを考えていたら、「くだらないこと考えてないで、さっさといい論文書けよ」と声が聞こえた。

そうします。

最後まで不肖の弟子ですみません。

 

平成30年4月24日

丸井 貴史