大妻中学高等学校教諭 小島 和
「キリシタン版」とは、16世紀末から17世紀初めに、イエズス会をはじめとした、その他のキリスト教団体の宣教師らが、布教を目的として編纂・出版した資料群のことを指す。「キリシタン版」として刊行された語学辞書は、『羅葡日対訳辞書』、『落葉集』とあるが、本書が扱う『日葡辞書』は、そういった辞書類の中でも最後に刊行されたものであり、最も大部の辞書となる。当時の日本語にポルトガル語語釈が付される形で編纂されたこの辞書は、言語資料としての価値も高く、広く研究に使用されてきた。しかし一方で、本書でも指摘している通り、「日葡辞書とはどういう辞書か」という問題に、真正面から向き合ってなされた研究は、さほど多くはなかったように感じる。また、『日葡辞書』に触れたことのある読者は少なくないであろうが、その読者の多くのいう『日葡辞書』とは、1980年に刊行された『邦訳 日葡辞書』のことであり、その原文にまで目を向けたことのある人は少ないのではないだろうか。「『引く』日葡辞書から、『読む』日葡辞書へ―」、本書の紹介に付されるこの一文は、本書が、『日葡辞書』を、現代の我々がどう「引く」かでなく、当時の宣教師らがはたして「どのように読んだのか」という点を最も重視し、研究された書であることを示しているように感じる。
本書は、『日葡辞書』全文を電子テキスト化し、網羅的に、かつ統計的に論じており、その一つ一つの論考はどれも手堅く、説得力がある。序章「日葡辞書とは」では、最初に『日葡辞書』の概要を示したうえで、第1章「日葡辞書の語釈」の中では、辞書中の語釈が、はたしてどのような仕組みでなされていったのか、明晰に説明していく。第1章第3節「訓釈-ローマ字で漢字表記を表すために―」では、見出し語の直後に配置される日本語注記=「訓釈」について、従来行われてこなかった詳細な検討がなされており、全編を通じてローマ字活字のみで組まれた、ローマ字本である『日葡辞書』が、この「訓釈」に、見出し語の漢字表記を想定させる役割を担わせていたことがうかがえる、と述べる。第1章の第4節以下では、辞書中に表記される注記に関して、その一つ一つの機能について詳細に論じられている。一例をあげれば、注記である「i,」(id est)や「l,」(vel)などは、『邦訳 日葡辞書』中ではそれぞれ「すなわち」、「または」と訳出されているが、それがどういったはたらきをなしているのか判然としなかった。本書ではその機能の違いについて詳細に論じられており、かつ、同時代のヨーロッパの辞書の中でのこれらの注記との、役割の差異にまで言及されている。第2章「日葡辞書の見出し語」では、日葡辞書の見出し語がどのような基準で選ばれていたのか、について論じられており、その論証の結果として、『日葡辞書』を「閉じた」性格の有する辞書と説明している。管見の限りでは、『日葡辞書』の性格に関して、ここまで端的に、明確に説明した研究はないように感じている。悉皆調査を行っているからこそできる指摘であると言えよう。第3章「日葡辞書の編纂方針」では、「序文」の二重印刷に着目することで、当時の編纂状況を推察する。全編を通じて、詳細な、重厚な論考が続くが、各章の末には、コラムも付されており、読み疲れることもない。
以上、拙い紹介を書き連ねてきたが、本書が『日葡辞書』に「真正面から向き合ってなされた」研究書であることは紛れもない事実である。
卒業論文から一貫して日葡辞書と向き合い続けた中野さんの、研究の一つの集大成としての本書の刊行を、心よりお喜び申し上げます。また、本書がより多くの方々の手に触れることを祈っています。
八木書店刊 A5判・258頁
初版発行:2021年3月25日 定価10,000円+税
ISBN 978-4-8406-2242-4 C3016