2021年度冬季大会発表者募集

発表申込みは、締め切りました。


今年度の冬季大会は2022年1月22日(土)を予定しており、現在研究発表者を募集しております。

発表予定時間は30分です。
発表を御希望の方は、氏名・所属・連絡先e-mail・発表題目(仮題可)・発表要旨(200~400字)を添えて、上智大学国文学会事務局(jouchikokubungakkai@yahoo.co.jp)までe-mailにてお申し込みください。

発表申し込みの締切は、2021年10月31日(日)23:59となります。

発表者は理事会にて決定し、その結果を御本人宛てお知らせいたします。

 上智大学国文学会事務局(jouchikokubungakkai@yahoo.co.jp

上智大学国文学会2021年度夏季大会 発表要旨集

許六俳文の出発点――『五老文集』所収「五老井記」草稿の分析      

砂田 歩

 「五老井記」は、『本朝文選』(宝永三年〔1706〕刊)などに所収される、森川許六(1656~1715)の俳文である。この俳文は、許六手稿『五老文集』に草稿が残っており、その推敲過程をたどることができる。本発表では、その推敲過程の分析を通して、許六がどのような意識をもって「五老井記」を書いたのかを検証する。許六は『本朝文選』の編者であるなど、俳文史において重要な人物であるためである。
 推敲過程の分析によって明らかにするのは、⑴松尾芭蕉(1644~1694)の俳文「幻住庵記」との対応が試みられていたこと、⑵和文脈と漢文脈のバランスが重視されていたこと、以上の二点である。そこから、従来許六と対立的にとらえられることのあった、芭蕉や各務支考(1665~1731)との俳文観の共通性を論じる。
 また、『五老文集』の成立の時期などから、芭蕉がその添削を行った可能性についてもふれる。

享保期艶書小説の教訓性とその背景―『当流雲のかけはし』を中心に―   

岡部祐佳

 『当流雲のかけはし』(享保四年〈1719〉刊)は、女筆手本の趣向や二十一代集および『源氏物語』に関する知識を取り入れるなど、啓蒙的側面を有する艶書小説である。この本書の啓蒙性は、主たる読者層であった上~中層町人の子女の需要を考慮したものであった。しかし、子女への教育という点からみれば、恋愛すなわち好色を題材とする艶書小説は、本来忌避すべきものといえよう。本書以前の艶書小説は、この倫理と好色の葛藤を仏教的価値観によって克服しようとするものが多かった。ところが本作は、作中において中世的な出家遁世を揶揄し、当代町人社会という現実世界を主体的に生きる女性の姿を描いている。
 本発表では、享保期における女子教育の潮流を踏まえつつ、本書の教訓性について検討する。また、それ以前に刊行された艶書小説との比較を通して、近世期艶書小説史における本作の位置づけについて、仮説を提示したい。

日本書紀の「亦」と「又」                       

李 明月

 藤原照等氏は古事記に用いられている「亦・又」について、両者は漢字原義により使い分けされていることを明らかにした。このような使い分けが日本書紀においても見られるか、また述作者が異なる日本書紀において使い分け方に差があるかを調査し報告する。
 「亦」「又」の副詞用法・接続詞用法それぞれが文頭・句頭・文中に用いられている用例を統計的に処理した。文頭以外に「又」が用いられている巻について「亦」「又」の用例を分析し、漢籍にない接続詞用法の「亦」がβ群のみに用いられていることを明らかにした。しかし、「又」が文頭以外に用いられる巻はすべて使い分けされており、誤用である接続詞の「亦」も「もまた」という漢字原義にから転用されたものと見られ、すべての巻において両者は漢字原義を意識し使い分けされていることが判明した。

出雲国風土記における山川原野の描写について 

             宮川 優

 出雲国風土記の記述が他の古風土記のそれと比較して整然としていること、各郡の前半部と後半部とで記述方法に違いがみられること、山や川といった自然を描写する地誌的説明はその後半部に置かれ、前半部に比して漢文を志向しているものの、その多くを類型表現が占めること、その類型表現は『山海経』や『水経注』等の漢籍に学んだ可能性があることなどが先行研究において指摘されている。
 眼前に広がる自然の様子をどのように記せばそれを見ぬ人々に伝わるか、漢籍を範としながら、その利用は文飾のためではなく、実景の簡素な描写や、全巻を通じた描写に関する方針の可能な限りの統一といったことに重きを置いて行われたと推察される。
 本発表では、出雲国風土記において山川原野の描写に用いられた類型表現を網羅的に眺め、漢籍におけるそれらの用例分布をこれまでに指摘されたものも含めて再確認することによって、その表現に見られる工夫の跡を辿りたい。

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上智大学国文学会2021年度夏季大会案内

大会は、予定通り開催致しました。

今年度夏季大会を次の様に開催します。
日時:2021年7月10日(土)13:30~18:00
会場:Zoom オンライン会議
参加申込み: 次のオンラインフォームに記入の上、御送信下さい。
https://docs.google.com/forms/d/1ye0M4Md6FbEVVAAlPfhUUJnsRLizHtGeN4FyjVl40oo/
7月8日頃に、発表資料のURL、ZoomのIDとパスワード等を、御記載のe-mail
宛にお送りします。

発表者と発表要旨:こちらのページを御覧下さい。

この他に、会員総会、土田賞授賞式・上智大学国文奨学金授与式を行ないます。

懇親会は、行ないません。

国文学論集55 投稿募集

投稿は締め切りました。


上智大学国文学会『国文学論集』55は、2022年1月に刊行を予定しており、皆様のご投稿をお待ちします。

〈『国文学論集』55 投稿規程〉
・投稿資格は、国文学会会員とする。
・投稿の枚数は、400字詰め原稿用紙40枚以内(注記・図表等を含む)とし、縦書きを原則とする。
・用紙はA4判とし、1ページは、縦書きの場合52字×18行、
横書きの場合36字×26行(ページあたり936字)とし、17ページ以内とする。
必ず各ページにノンブル(ページ番号)を付す事。
・完全原稿とし、未発表論文(口頭発表を除く)に限る。
・投稿先:原則としてpdfを、次へのメールに添付して提出の事。jouchikokubungakkai@yahoo.co.jp
・締切:2021年9月12日(日) 23:59 JSTまでに到着のものを有効な投稿とする。
・審査は、理事会のもと、複数の専門家の査読のうえ、採否を決定する。
・採否にかかわらず、応募論文は返却しない。
・論文掲載者には、掲載誌2部、抜刷40部を贈呈する。

2021年度夏季大会発表者募集

今年度の夏季大会は、2021年7月10日(土)午後zoomにて開催予定です。

発表者募集は、締め切りました。(2021年5月19日)

発表をご希望の方は、

1.氏名

2.メールアドレス

3.所属

4.発表題目(仮題でも可)

5.発表要旨(200~400字)

をご記入の上、2021年5月18日23時59分までに、申し込みサイトにてご送信ください。

国文学科同窓会設立総会及び第一回同窓会のご案内

上智大学同窓会の学科同窓会設立総会準備委員会よりのお知らせを転載します。


国文学科卒業生の皆さまへ

2019年ソフィア会春の代議員会で国文学科同窓会が承認されました。
しかし20年からのコロナ禍により設立総会を開催することができませんでした。
21年度もコロナの感染状況、ワクチン接種の進捗状況を見ますと、対面での開催は難しいと思われます。
そのため、5月30日オンラインASF(上智大学オールソフィアンズフェスティバル)上での設立総会及び同窓会開催の準備を行っております。

期日:2021年5月30日(日)午前10:30~12:00 Zoomにて開催

お返事の期限:5月23日

世界中、日本中どこからでも繋がれますので是非ともご参加ください。

Zoomのパスコードは参加のお返事をいただいた方に24日以降メールでお送りいたします。

【連絡先】
真下クルミ(73年卒)mashimokurumi@gmail.com
国文学科同窓会 kokubun@sophiakai.gr.jp(CCにこのアドレスをつけてお送りください)

【Zoomについて】
スマホ、タブレット、パソコンから参加できます。あらかじめZoom
アプリのダウンロードをしてください。

ダウンロード方法
iPhone:アップルストア→検索→Zoom→入手→インストール→パスワード入力→完了
android:playストア→検索→Zoom→インストール→完了
*タブレットはこれに準じます。
パソコン:スタートメニュー→ストア→検索→Zoom→無料→インストール開始→完了。

*Zoomでの参加は初めて、不安という方のために24日の週に体験会を予定しております。


尚、同期、同窓のお知り合いがいらっしゃいましたらお知らせくださいませ。
こちらから当日のZoom URLをお送りいたします。

学科同窓会設立総会準備委員会 真下クルミ(73年卒)

会員新著紹介:原貴子『森鷗外の現代小説 不平等のなかの対等』

上智大学大学院文学研究科国文学専攻博士後期課程 木村素子

 森鷗外の現代小説は主に明治40年代に発表され、小説内時間を発表された同時代に設定していることから、作家・森鷗外像を考察するための作家論の立場から論じられる傾向があった。本書においては、各論文毎に示される「問題のありか」において、先行研究が整理されており、そこには作品と真っ正面から向き合う論がこれまで少なかったことが暗に提示されている。

 本書は鷗外の現代小説から8作品を対象として、大きく6章で構成されている。それを作家論的ではなくテクストとして捉え、これらのテクストに「対等」の意識が通底していることを、全体を通して詳らかにしている。

 「Ⅰ 対等への志向」は、論者が本書全体の「見取り図」と位置づけたように、本書の総論であり結論とも言える章段である。この章では鷗外の現代小説の特質として、「不平等のなかにおいて平等に価値を見出し、対等な関係性を希求し探求する姿勢」を指摘する。この「対等」とは、「自己と他者との間に、さまざまな点で優劣・上下が生じていながら、主に他者に対する敬意に由来して包括的には他者と自己を横並びの存在として認識し、定位しようとする精神性」と定義している。この「対等」意識が現代小説においてどのように描出されているのか、各論としては取り上げていないテクストをも視野に入れながらまとめている。「Ⅱ 人種」では、「大発見」・「花子」に見られる、人種間における不平等のなかの「対等」を考察する。特に「花子」では、ロダンと花子の間には人種的序列などの不平等が存在するが、一個人として向き合う際には不平等のない人間同士のやり取りが行われているとして、この関係性に不平等のなかの「対等」を見出している。「Ⅲ 職業」では、職業上の不平等について「吃逆」・「里芋の芽と不動の目」を題材として考察している。「吃逆」で描かれるのは、待合における芸者と知識人の客とのやり取りである。芸者を下位に、客を上位に置くことが制度として定まっている場において、芸者の問いかけに真摯に対応する客は、制度を越えた一対一の関係性を築いたのであり、芸者を一人の人間として扱っている。ここに行為としての「対等」が成立していると論じる。「Ⅳ 下層社会」においては、異なる社会的階層を生きる人々や、下層社会に生きる人間の姿を描く「仮面」・「牛鍋」を考察の対象としている。特に「牛鍋」において描出される、下層社会における「本能」の争いと助け合いという問題において、クロポトキンの『相互扶助論』の内容に通じる点があることを指摘した上で、論理と実践の間には大きな障壁があり実践に移すことの困難さを示したテクストであると論じる。「Ⅴ 欲望」の章では、「鶏」の登場人物「石田小介」とは如何なる人間か、という問題点と、乃木希典表象との関連性という問題点の二つを大きな問題意識として取り上げ、精緻な論を展開している。「石田」の他者に対する言動を基にその認識を考察すると、特有の倫理観や価値観を有しているものの、相手に歩み寄る柔軟性や寛容さを持った人物であるということができる。そしてこの精神的な柔らかさは、社会的な立場の違いなどに左右されることがない。また、作中で「石田」が生活態度の基準としているように見える「野木」は、乃木希典をモデルとしている。このことから当時の乃木表象を、新聞や乃木に関する書籍、職場を共にした人物の手記などから多角的に追究している。類似点もあるものの、生きる認識においては、大きな違いがあることを指摘し、性格の捉え難さ故に乃木の直接の影響を「石田」に見出そうとする先行論とは一線を画している。「Ⅵ 制度」では、「蛇」に登場する理学博士「己」の言動が小説の中核を成しているとして、他者と直接話法で会話をする場面に、「己」の明確な認識を見出すことを第一の問題提起としている。第二の問題は「蛇」という作品に対してこれまで言及されることのなかった、明治44年前後の普通選挙運動と、「己」の発言が関連性を持っていることに焦点を当てている。教育歴や経済力といった外的条件によって人間の上下を判断するといった考え方が社会で共有されていたという問題を、普通選挙運動を巡る言説の中に見出し、この考え方と対極にある考えを持つのが「己」であると位置づける。「己」は外的条件ではなく、「理性」の有無、つまり自らの観念を現実に合わせて再編成していくことで、自己を新たに生成することができるか否かという基準で人間を識別する考えを持つ。この「己」の考え方は、普通選挙運動が内包する観念への批判となっていると論じ、強い関連性を指摘した。

 本書の特徴は、テクストの〈読み〉と文化的コンテクストに対する精緻な〈調べ〉が確かに手を取り合っていることであろう。それ故に考察は重厚、抜かりのない調査は同時代の空気を私たちの眼前に再現してくれる。そして、この特徴が最もよく表れているのを私は、「Ⅴ 欲望」及び「Ⅵ 制度」の章に見る。この、〈読み〉と〈調べ〉の強い結びつきという手法は、森鷗外研究のみならず、近代文学研究に刺激を与えるものと思われる。

花鳥社

A5判・270頁

2021年3月30日(初版)

定価4,200円+税

会員新著紹介:中野遙『キリシタン版 日葡辞書の解明』

大妻中学高等学校教諭 小島 和

 「キリシタン版」とは、16世紀末から17世紀初めに、イエズス会をはじめとした、その他のキリスト教団体の宣教師らが、布教を目的として編纂・出版した資料群のことを指す。「キリシタン版」として刊行された語学辞書は、『羅葡日対訳辞書』、『落葉集』とあるが、本書が扱う『日葡辞書』は、そういった辞書類の中でも最後に刊行されたものであり、最も大部の辞書となる。当時の日本語にポルトガル語語釈が付される形で編纂されたこの辞書は、言語資料としての価値も高く、広く研究に使用されてきた。しかし一方で、本書でも指摘している通り、「日葡辞書とはどういう辞書か」という問題に、真正面から向き合ってなされた研究は、さほど多くはなかったように感じる。また、『日葡辞書』に触れたことのある読者は少なくないであろうが、その読者の多くのいう『日葡辞書』とは、1980年に刊行された『邦訳 日葡辞書』のことであり、その原文にまで目を向けたことのある人は少ないのではないだろうか。「『引く』日葡辞書から、『読む』日葡辞書へ―」、本書の紹介に付されるこの一文は、本書が、『日葡辞書』を、現代の我々がどう「引く」かでなく、当時の宣教師らがはたして「どのように読んだのか」という点を最も重視し、研究された書であることを示しているように感じる。

 本書は、『日葡辞書』全文を電子テキスト化し、網羅的に、かつ統計的に論じており、その一つ一つの論考はどれも手堅く、説得力がある。序章「日葡辞書とは」では、最初に『日葡辞書』の概要を示したうえで、第1章「日葡辞書の語釈」の中では、辞書中の語釈が、はたしてどのような仕組みでなされていったのか、明晰に説明していく。第1章第3節「訓釈-ローマ字で漢字表記を表すために―」では、見出し語の直後に配置される日本語注記=「訓釈」について、従来行われてこなかった詳細な検討がなされており、全編を通じてローマ字活字のみで組まれた、ローマ字本である『日葡辞書』が、この「訓釈」に、見出し語の漢字表記を想定させる役割を担わせていたことがうかがえる、と述べる。第1章の第4節以下では、辞書中に表記される注記に関して、その一つ一つの機能について詳細に論じられている。一例をあげれば、注記である「i,」(id est)や「l,」(vel)などは、『邦訳 日葡辞書』中ではそれぞれ「すなわち」、「または」と訳出されているが、それがどういったはたらきをなしているのか判然としなかった。本書ではその機能の違いについて詳細に論じられており、かつ、同時代のヨーロッパの辞書の中でのこれらの注記との、役割の差異にまで言及されている。第2章「日葡辞書の見出し語」では、日葡辞書の見出し語がどのような基準で選ばれていたのか、について論じられており、その論証の結果として、『日葡辞書』を「閉じた」性格の有する辞書と説明している。管見の限りでは、『日葡辞書』の性格に関して、ここまで端的に、明確に説明した研究はないように感じている。悉皆調査を行っているからこそできる指摘であると言えよう。第3章「日葡辞書の編纂方針」では、「序文」の二重印刷に着目することで、当時の編纂状況を推察する。全編を通じて、詳細な、重厚な論考が続くが、各章の末には、コラムも付されており、読み疲れることもない。

 以上、拙い紹介を書き連ねてきたが、本書が『日葡辞書』に「真正面から向き合ってなされた」研究書であることは紛れもない事実である。

 卒業論文から一貫して日葡辞書と向き合い続けた中野さんの、研究の一つの集大成としての本書の刊行を、心よりお喜び申し上げます。また、本書がより多くの方々の手に触れることを祈っています。

八木書店刊 A5判・258頁
初版発行:2021年3月25日 定価10,000円+税
ISBN 978-4-8406-2242-4 C3016

新学科長就任のご挨拶

新年度を迎えるにあたって

                                                          国文学科長・福井 辰彦

 2021年4月1日より国文学科長となりました。こうした重い役職に就くのは生まれて初めてのことで、ただただ不安でいっぱい、早くも少し胃がきりきりと痛み始めています。もっともそれ以上に、学科の先生方はじめ周りの方が、「あいつで大丈夫なのか?」とご心配のことと思います。ともかく誠実に職務に当たる所存ですので、長い目・広い心で、ご支援・ご協力の程、よろしくお願い申し上げます。

 さて、昨年度は新型コロナウイルス感染症の対応・対策に明け暮れた一年でした。状況はなお厳しく、警戒を緩めることはできませんが、それでも大学は対面授業を再開し、部分的に、少しずつではありますが、元の姿を取り戻そうとしています。

 そんな中、新年度、国文学科は61名の新入生を迎えることができました。感染症の影響のみならず、入試制度が二転三転するといった困難も乗り越えて、入学してきた新入生たちに敬意を表し、また心から歓迎いたします。

 入学早々、コロナ禍に見舞われ、大学に来ることさえ叶わなかった新2年生にとっては、この春が大学生活の本当のスタートだと言っても良いでしょう。一年生同様、あるいはそれ以上に、戸惑うこと、不安なことが多くあるだろうと思います。学科としても、よく注意を払い、適切な助言・手助けが出来るよう努めてまいります。

 3、4年生についても、一年の空白がどのような影響を及ぼしているか、学生たちの様子をよく見ながら、指導に当たりたいと思います。

 教員の方では、中古文学担当の本廣陽子先生が、一年間、研究休暇を取られます。代わりに東京大学の田村隆先生、実践女子大学の舟見一哉先生に、授業をご担当いただくことになっています。他大学の先生の授業を受けられる貴重な機会ですので、学生諸君には、積極的に受講して欲しいと思います。

 最後に個人的な所感を書くことをお許し下さい。

 学習指導要領の「改悪」に象徴されるように、国語・国文の軽視・蔑視は年々強まってゆくように見えます。夜郎自大そのものといった風の古典や伝統の曲解・悪用も散見されます。そして、そうしたことどもは、世の中を行き来する言葉が、軽く、空虚に、また粗暴になってゆく傾向と、どこかでつながっているに違いありません。

 「実社会で役に立つこと」「世の中のためになること」、それ自体を否定するつもりは、もちろんありません。しかし、昨今これらの言葉が使われるとき、それは結局「ゼニカネ」の話でしかないように感じます。目先の儲けや効率にしか目を向けない風潮の中で、言葉に敬意と畏怖と責任感を持ち、願わくはそこに古典的教養を「あや」や「うるおい」として添えられるような、そんな若者を育てるには、どうすればよいのか。愚かで不器用な私には、今のところこれといった妙案も浮かばないのですが、その志だけは失わずにいたいと考えているところです。