「生活」とは何か―横光利一の戯曲における男女― 胡桃澤梨絵
横光利一(一八九八〜一九四七)は自身の戯曲を「生活の別名」と称した※。
これは、戯曲が「一つの生活に現れた」人間の姿を文字の上に表すものだという横光の戯曲観に基づいているが、横光の発言を理解するためには、「生活」とは何であるかという根本的な問いを解決せねばならない。本発表は、横光の「生活」に関する言説を頼りに、戯曲を表す「生活の別名」の意味を探りたい。その定義を踏まえて、実作の戯曲における「生活」は何かについても考察を加えたい。
※(「食はされた生活―新劇協会上演の『食はされたもの』―」『読売新聞』一九二五・一・三一朝刊)
恨まない寝覚の上—『夜の寝覚』における「恨む」及びその関連語に着目して—
大友あかり
『夜の寝覚』には、「恨む」「言ひ恨む」「恨み」「恨めし」「恨めしげなり」のような「恨む」に関連する語が多く出現する。特に、『源氏物語』では女君にはあまり用いられないこれらの語が、女主人公の寝覚の上に多く用いられていることは注目に値する。
本発表では、寝覚の上の「恨む」の様相を追い、これらの語が、一夫多妻の状況にありながらも「恨まない」寝覚の上を積極的に描くために用いられていることを指摘する。さらに、寝覚の上の「恨めしき節」における思考や態度を、寝覚の上と同様の状況にある『源氏物語』の女君らのあり方と比較し、その違いを検討する。寝覚の上の「恨み」の独自性から、『夜の寝覚』における性質や心情の描き方の特色を考えてみたい。
動詞基本形による終止とその時間的性格 栗田 岳
現代日本語の動詞基本形(助動詞を伴わない、動詞単独のかたち)は、アスペクト的に「完成」相、テンス的に「非過去」の形式と記述されることがある。「完成」とは、動詞を局面に分割しない全一的な把握の云いであり、「非過去」の具体的な在りようとして、動詞基本形が概ね「現在」には対応しないことも指摘されている。
以上をふまえて、本発表では次のことを論じる。
①「完成/不完成」とはスラブ諸語の理解のために設けられた概念であり、そのまま日本語に適用しうるわけではない。
②動詞基本形の「非過去」に「現在」が含まれないのは、「現在」が瞬間であり、それが「完成」と齟齬するからだとも主張されている。しかし、副詞「いま」を分析する限り、日本語が「現在」を瞬間と捉えられているかどうかは明らかではない。
③振る舞いの検討に基づけば、動詞基本形の時間的な性格は「特定の時点に位置づけない」というものであると考えられる。