宮川優(本学グローバル教育センター助教)
二月に、私の大学院の先輩である葛西太一氏がご著作を発表なさいました。
『日本書紀段階編修論 文体・注記・語法からみた多様性と多層性』と題され、その頭言に「本書では、日本書紀に〈正しさ〉を求めることに疑念を抱くことを旨とする。これまでに古訓や古注釈によって導き出された矛盾や誤謬の少ない是正された解釈を見直し、ありのまま書かれている通りに読解することを目指す。」(八頁)とある通り、私たちが敬愛する師である瀬間正之先生のご研究の流れを汲み、日本書紀の実証的な解釈を可能にするためのご調査、ご考察がまとめられた研究書です。
会員の皆様ならびに諸先生方にとっては読めば分かる紹介不要の本であるかと存じますので、ここでは皆様の周りにいらっしゃるかもしれない、上代文学に近寄りがたさを感じている方々や、私のような初学者を思い浮かべつつ、僭越ながら申し上げます。
葛西氏の後から上代文学を学ぶ私たちにとっては、新しい導き手となる、とても心強い一冊と思います。
私は、名立たる先生方の研究成果を前にいつも足が竦んでしまいます。おそらく、学部生を含めた初学者の皆様のなかには、少なからずそうした気後れのようなものがあると推察します。この本はその恐れを取り除き、研究とはどういうものなのかを明確に、そして懇切丁寧に語りかけてくれます。魅力あふれる上代文学の世界を先行研究の数々を繙きながら自然と学べる仕掛けが巧まず施され、可能な限り生の史料や文献に触れることや、多くの情報を鵜吞みにせず研究対象と向かい合うことをも、さりげなく励ましてくださっているように感じられます。
日本書紀研究の世界というものが三次元に存在するとしたら、今回、葛西氏はそれにx, y, z軸の座標を細かく示し、そこにぱっと光を照射して、この章あるいはこの節ではこの筋道を通ります、とレーザポインタか何かで辿ってみせてくださっているかのようです。丁寧に示された点を結び、同じく示された線をその向こうに透かして見れば、読み手は関連する知識の多寡にかかわらず、どのような側面について論じられているかを把握できます。
日本書紀を研究することの楽しさは私などが言い尽くせるものではありませんが、誰の手になるものか、どのように成立したかを明らかにするべくその跡を辿り考えを巡らすことは、その楽しみのひとつと言えます。
先行研究によって、日本書紀が複数の人々によって述作されたことが明らかにされており、現在に伝わる三十巻が成立した順序も含め、巻同士の関係性を論じる区分論が長らく研究の主流となっています。
第一章「文体・句読の差異からみた日本書紀」で照らされるのは、主にこの側面です。初出が「日本書紀の文体」(鈴木靖民 監修、瀬間正之 編修『「記紀」の可能性』所収、古代文学と隣接諸学一〇、竹林舎、二〇一八年四月二日刊)となっていますが、会員の皆様にとっては平成28年度冬季大会における「壬申紀の成立――日本書紀の句読と文体意識――」と題されたご発表もご記憶に新しいと思います。
葛西氏は従来の区分論にさらに踏み込み、句読の示し方を手掛かりに新たに甲乙丙丁の四区分を提示し、甲群と乙群との述作者が異なること、天武紀上下巻の述作者ないし述作段階が異なること等を指摘なさいました。
その鮮やかさ、面白さに頁を繰るだけで胸が躍りますが、このご研究の新しさは散文全体を対象とした網羅的な調査・検証によって従来の区分論との一致・不一致を認めたこと、さらに考究すべき幾つかの特徴的な記事を見出したこと等にあると考えられます。
それらの成果が図表を用いて先行研究の流れのなかに分かりやすく配置されていることや、「腑分けして調査をする」「調査結果を統合して考察する」という研究のふたつの方向性を追体験できる分かりやすい解説が読み手に楽しさをもたらしてくれます。
この楽しさは、第二章、第三章においても引き続き提供されます。
第二章「注記・表現の重複からみた日本書紀」には第一章の成果が展開され、日本書紀の述作や編纂をを基層・表層・深層の折り重なった多層的なものと捉えたうえで、その方針や構想がいかに変化して現存する本文を成り立たせたかが明らかにされます。検証の焦点は丙群の内部に絞られ、表記とそれによって指示される内容とを行き来しつつ論が進められます。
このうち第四節「『頼』字の古訓と解釈」では、「対象語句を古典中国語の枠組みの中で捉え、外国語そのままに解釈を行おうとする視点」と「対象語句の背景に当時の和語ないしは和語に基づく訓読のあることを前提として、これを古典中国語によって表記した翻訳語として解釈を行おうとする視点」との、二つの視点のいずれをもって日本書紀を読解すべきかという研究課題が提示されるとともに、「古訓」に関しても、その有用性の検証や、それが示す解釈と古典中国語としての解釈との齟齬に関する考察の必要性が説かれます(一五〇頁~一五一頁)。これはそのまま第三章への澪標となっている部分で、「経典や史書に範を求めた文言文」「六朝美文」「俗語小説にみられる表現」「漢語を和化した表現」「和語を漢字で表したもの」等、日本書紀に様々な表現が混在していることを読者に説いたうえで、介詞「頼」の用例に一つひとつ当たって各々の特性を明らかにし、そこに日本書紀の編纂段階と編纂方針の転換を見ています。
第三章「語法・表記の揺らぎからみた日本書紀」に至り、論は最高潮に達します。漢籍や古辞書における用例と日本書紀における用例とを具に対照し差異を見極めることによって、任意の漢語表現が有する背景に迫り、そこにどのような意味があるのかを炙り出します。その検討は時間軸・空間軸が念頭に置かれ、語義、語法、語序、文脈といったあらゆる角度から為されます。
一冊を読み終える頃には、日本書紀の多様性・多層性の有り様が、先行研究の多様性・多層性と共に感得せられます。
終章において葛西氏は、「日本書紀の特質は、これまでにも多元性や複数性という言葉によって形容されてきたように、多層性と多様性が緩やかに包摂されている点にある。」「日本書紀に見られる多層性と多様性は、不作為に起因するものと捉えるには規模が大きく、むしろ意図的に残されたととらえるべきように思われる。」と指摘なさっています(三五〇頁~三五一頁))。ここに示された見通しは私たちにとって灯台のようなものに感じられます。
そして、頭言で述べられているように日本書紀を書かれている通りに読解することの意味がしんと沁みてきます。
他分野を研究なさっている皆様にも上代の文学研究の最先端をぎゅっと凝縮した一冊としてお楽しみいただけると思いますので、是非お手に取ってご覧ください。
研究書を普段はお読みにならない方々にもお勧めいたします。その醍醐味を余すところなく味わっていただけると思います。
(花鳥社、二〇二一年二月二八日刊)A5版三五九頁+索引八頁