○研究発表要旨
『遊仙窟』四古抄本における口語の理解度の調査の試み
上智大学大学院国文学専攻後期課程 石 璽彦
『遊仙窟』は、唐代伝奇小説の代表格であり、汪辟疆氏(1930)が「唐人口語、尚頼此略存(唐人の口語、なお此れに頼ればほぼ存ず)」と口語資料としての重要性を示している。その口語の研究は、許山秀樹氏(1994)、張黎氏(2014、2020)諸氏が既に注目し、諸々成果も挙げられる。
しかし、『遊仙窟』には、醍醐寺本・陽明文庫本・真福寺本・金剛寺本という四つの古抄本があり、各々に訓読が付けられ、その訓が必ずしも同一ではない。四つの抄本の中に、唐代口語が理解されず、別の意味で訓読が付けられた例も見られる。後の江戸初期無刊記本に至っても、それらの訓読が継承された例もある。
今日、以上の諸抄本の訓について、口語語彙理解度を注目する研究がまだ存在しない。本発表では、四抄本中の典型的な口語語彙例を取り上げながら、各々抄本の口語語彙理解度の比較調査を試みる。
本居春庭の活用論再考
鶴見大学准教授 遠藤佳那子
本発表では、本居春庭『詞八衢』(文化五年〈1808〉刊)と『詞通路』(文政十一年〈1828〉序)における活用論を再考する。①春庭の活用表には後接要素との関係だけでなく統語論上の枠組みがあると考えられ、春庭が命令形を活用表に設けないのは形態上の不統一のためだけでなく統語論上の問題があること、②春庭の後継者である義門は『山口栞』(天保七年〈1836〉刊)において「転用」という術語を用いて複合語の語構成について論じているが、これは春庭の活用論を体言の側から補完し彫琢するものとして位置付けられること、以上の点について論じる。
久保田万太郎「ふゆぞら」論―虚子と鏡花を補助線に―
上智大学文学部助教 福井 拓也
これまで不思議と注目されてこなかったようだが、近い時期に同じような不安を、高浜虚子は「俳話(二)」(『ホトトギス』明37・2)で、泉鏡花は「ロマンチツクと自然主義」(『新潮』明41・4)で、それぞれ口にしていた。言葉が歴史的に保持してきたコノテーション、それに目を瞑るような文学表現の趨勢に、虚子も鏡花も違和感を覚えずにはいられなかったのである。
本発表では、二人に共通の不安――それは埋もれてしまっていた近代文学史上のトピックを指し示している――を補助線にして久保田万太郎の小説「ふゆぞら」(『三田文学』大2・9)を読み解いていく。そこから言葉と世界とをめぐるいくつかのスタンスを明晰化し、その歴史的な展開とジャンル布置とのつながりを考察してみたい。
○実践報告概要
上智大学の全学共通科目―「思考と表現」領域の取り組み
上智大学文学部教授 服部 隆
本実践報告では、上智大学基盤教育センターの「思考と表現」領域の取り組みを、必修科目「思考と表現」の実施状況と課題を中心に、担当の先生方からご報告いただき、情報の共有を図りたい。
上智大学では、二〇二一年度に基盤教育センターが発足し、「キリスト教人間学」「身体知」「思考と表現」「データサイエンス」「展開知」の五領域において、二〇二二年度より全学共通科目を提供している。従来から国文学科は、「文章構成法」「国語表現」の二科目を提供していたが、これらは「思考と表現」領域の選択科目として新たに位置づけられることになった。また、「思考と表現」領域では、全学部の必修科目として「思考と表現」という科目を新たに開設し、現在、国文学科卒業生二名を含む特任助教七名の体制で、この科目を運営している。
本日の実践報告では、この「思考と表現」科目の実際をご報告いただき、その狙いを共有するとともに、「文章構成法」「国語表現」科目との連携を視野に入れながら、今後の課題について考えていきたい。
上智大学国文学会の会員には、日頃、中等教育・高等教育の現場において、ライティング教育に携わる者も多い。また、国文学科学部生、国文学専攻大学院生の中には、将来、この種の教育に関わる者も多いと期待される。質疑応答を通じて、大学におけるライティング教育の将来について考える機会としたい。