大学院近況

西澤 美仁

 昨年度は前期課程・後期課程とも入学者が1名ずつという寂しい状況だったが、今年は3名ずつと少しだけだが持ち直した。とはいえ、前期課程在学生数の合計4名は文学研究科8専攻で最低である。幸か不幸か、入学者が3名を数えるに至ったものの、無事修了した者も3名いたからである。後期課程は7名の在籍になる。

 昨年末に課程博士取得者が1名出た。上智大学の国文学科創設以来の快挙である。丸井貴文『近世中期文学と白話小説―初期読本成立史の再構築―』がそれで、同君は日本学術振興会特別研究員にも採用された。今年度あるいはそれ以降にも、提出あるいは予定する例が続くこととなり、ひところ随分おとなしかった大学院に少し活気が戻りつつあるのは喜ばしい限りである。平成28年度大学院国文学専攻研究報告書及び平成29年度大学院国文学専攻研究計画書に記載されている業績を一覧すると、

 *網野可苗「物くさ太郎の一代記―『物種真考記』にみる手法としての「実録」―」(近世文藝104号2016.7)

 *葛西太一「豊後国風土記の漢語表現―景行紀「排草」「車駕」との対照をめぐって―」(風土記研究38号2016.3)

 *中野遙「キリシタン版『日葡辞書』の語釈構造について」(訓点語と訓点資料138輯2017.3)

 *宮川優「豊後国風土記の特殊性―『輿地誌』との比較を端緒として―」(風土記研究39号2017.3)

というように、学会誌に掲載される論文も目立ち始めた。上智大学の『国文学論集』にも論文が掲載され、土田賞受賞も相次ぎ、学会での口頭発表もいくつも出ている。

 しかし、文学研究や国文学を取り巻く現状は、相変わらず厳しいものがあり、今後も急速に好転する兆候は見られない。冬の時代はまだ当分続く気がする。

 近況を語る、となるとこれでおしまいなのだが、どうすればこの閉塞状況を突破できるのであろうか。十年近く前に政権が交代した時も、さらに旧に復したときにも、文学研究への評価は何も変わらなかったように感じる。ただ、急に好転することもないが、今すぐ衰滅するものでもないようにも思う。そのような選択肢を想定すること自体が愚挙にすぎようからである。

 文系に対して理系を重視することも、グローバル化に向けて大学のすべてが一丸となることも、その逆と同じくらい間違っていることが、刻々と証明されつつある。私たち国文学が学問の先端に立つことはないであろう。そんな時代はもう終わってしまったし、もう再びは来ないであろう。

 今、学部の授業でであるが、はじめて『太平記』を読んでいる。何か事が語られるそのたびに、その可否は漢籍の引用で計測される。共感すべき発想であると推奨するつもりは毛頭ないが、漢籍の素養こそが学問であった時代に、そのように計測されたということは、学問に絶対的な価値がある時代があったということである。その学問がないがしろにされ、大学でさえ学問以外の基準で相対化されるようになって久しい。そういう時代に、片鱗なりとも学問の残香に触れる機会が得られる私たちはまだ幸せなのかもしれない。

 喫茶去、ではないが、まあ大学院にでも来て本でも一冊読んでゆけ、そんな心境である。

(国文学専攻主任)