文の学としての国文学

 

小林 幸夫

 

 20年ぐらい前のことである。上智大学の国文学科も、国際化の趨勢に押されて、日本文学科にしないかという圧力がかかった。その方が現代的だと言うのだ。その時、先輩の先生方はだれひとり首を縦に振らなかった。その意は、国文学というものは我が国固有の文学および学問で、世界を国別に分けて、アメリカの文学がアメリカ文学、日本の文学が日本文学という具合に整理されては困る、というところにあった。そこで大学のおうかがいに抗して国文学を通したのであった。

 そのころ他の大学では、日本文学科、日本語・日本文学科、日本文学・文化学科などと名称を変更するところが多く、流行の観を呈した。ちょっと肩身の狭い感じを受けたが、しばらくすると、名称を変えた他大学の教員で、やっぱり国文学の方がいいですね、と本気で言ってくれる人も出てきて、少し安心した。

 ここからは私見になるが、私は日本文学ではなく、国文学であるべきだ、と思う。いまは、文学という言葉にliteratureの訳語としてのイメージが強いが、文学とは、明治以前の日本では、思想や感情を文章に表したものを指し、学問の意味で使用された。小説・詩歌・戯曲などを直接示すものではなかった。その痕跡は、筑摩書房の快挙『明治文学全集』全100巻に如実に表れている。小説・詩歌・戯曲はもちろん入っているが、史論、芸術論、哲学、思想、宗教、新聞の言論、記録が約10巻を占めているのである。これは、昭和40年の出版で、これが日本の文学に対する考え方なのである。

 振り返って見れば、私は高校で『徒然草』や『枕草子』を習ったとき、なんでじいさんのつぶやきが文学で、元気のいい女の子の饒舌が文学なの? と不審に思った。変だ、と思った。しかし、それは、私が文学イコールliteratureと浅はかにも思っていただけなのであった。

 浅はかはもう一つある。大学の文学部は文学つまりliteratureの学部と思っていた。そして、上智大学では何で文学・部に新聞学科があるの、と不思議であった。それが、文の学部、つまり文・学部という日本の伝統に沿ったものであったことに気づいたとき、目の覚める思いがした。そう言えば、日本に西洋式の東京帝国大学ができたとき、文科大学、理科大学と称していた。後に文理大学というのも現れた。literatureに文学の文字を当てたが、その狭義の文学のイメージの増殖に関わらず、文(広義の文学)の学としての文学は、根強くいまに生きているのである。

 漢文学・国語学・国文学は、中国文学・日本語学・日本文学ではない。我が国の文化の一翼を形成した我が国に沿った学問である。それらはすべて、広義の国文学である。そして互いにこの三つの領域は浸透し合っている。この歴史的経緯を考慮に入れれば、上智大学の国文学科が、国文であり、緊密に連携する三つの領域を保持していることは、運動体として、かつ我が国と正面から向き合う学問として、普通のことであると思う。そして、そういう場で生きられていることを幸せと思っている。

                    (国文学会会長)